使い捨てにされる承認

あるサービスを受けた際、担当者が丁寧に対応くださったのだけれど、受け手のこちらよりもご自分の充実感を優先しているふうだった。

サービスのフレームは決まっているから、承認はこちらに課された役割分担だが、気がつくと必要以上に承認している。

こちらはお金を出して、「意味のある労働」を実現する機会提供をしている――必要のないことまでやってもらいながら。 こういう「持ちつ持たれつ」を解体するのに、かなり勇気が要る。

充実感を際限なく探すことは、周囲を巻き込む。 「生きる意味」は、それ自体が嗜癖の対象だ。 労働にともなう意味のフレームはどこかで形式的に固定し*1、それを柔軟に着脱しなければならない*2

いまは意味のフレームが無数にあり、個別フレームへの承認機会が欠けている(不況)*3。 うっかり機会提供すると、フレームが人を使い捨てにする。 「これは認めない」と言い切る勇気の欠如が、惰性の承認になる――ますます不活性になる。


努力のフレームを対象化する分析がないために、拒絶が感情的でしかない。


派閥的な癒着は、結論というより、「事業フレーム」の形をしている。 そのフレームで「意味らしく見えるもの」を生産し続けるかぎり、承認機会がそれなりに与えられる。 ゲームへの埋没*4

既存の景気浮揚策は、パッケージになった意味(需要)の話ばかりだが、むしろ活性化は、需要フレームの間を生きる分析にかかっている。 制度化された承認と別の労働ができるかどうか。




*1:「なぜそうするのか?」への答えを用意しないこと。 それが逆に、自由な検証の機会をつくる。

*2:意味フレームの道具的地位を忘れると、そのフレームのために人を使い捨てにし始める。 「意味を実現するフレーム」に嗜癖しながら。

*3:学問や政策も商品パッケージを目指す。 意味のフレームは無数にあるが、そのパターンは完全に画一化されている――商品というパッケージにおいて。

*4:《商品化の拒絶》も、それ自体として主観性の生産態勢を固定しており(イデオロギー)、党派的抱き込みを再生産する。 その生産態勢の全体が商品的に自己を主張する。