あるサービスを受けた際、担当者が丁寧に対応くださったのだけれど、受け手のこちらよりもご自分の充実感を優先しているふうだった。
サービスのフレームは決まっているから、承認はこちらに課された役割分担だが、気がつくと必要以上に承認している。
こちらはお金を出して、「意味のある労働」を実現する機会提供をしている――必要のないことまでやってもらいながら。 こういう「持ちつ持たれつ」を解体するのに、かなり勇気が要る。
充実感を際限なく探すことは、周囲を巻き込む。 「生きる意味」は、それ自体が嗜癖の対象だ。 労働にともなう意味のフレームはどこかで形式的に固定し*1、それを柔軟に着脱しなければならない*2。
いまは意味のフレームが無数にあり、個別フレームへの承認機会が欠けている(不況)*3。 うっかり機会提供すると、フレームが人を使い捨てにする。 「これは認めない」と言い切る勇気の欠如が、惰性の承認になる――ますます不活性になる。
努力のフレームを対象化する分析がないために、拒絶が感情的でしかない。
派閥的な癒着は、結論というより、「事業フレーム」の形をしている。 そのフレームで「意味らしく見えるもの」を生産し続けるかぎり、承認機会がそれなりに与えられる。 ゲームへの埋没*4。
既存の景気浮揚策は、パッケージになった意味(需要)の話ばかりだが、むしろ活性化は、需要フレームの間を生きる分析にかかっている。 制度化された承認と別の労働ができるかどうか。