被差別ポジションからいかに語るか (1/6)

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』合評会に関連した、酒井泰斗氏へのお返事の続きです(参照)。


酒井さん12より(強調箇所は原文どおり):

  • 〔上山による質問の引用〕 《ひきこもり経験者の集まる共同体では、思想の本を読んでいるだけで「頭でっかち」あるいは「寝返った」みたいに言われることがあります。 支援現場でアカデミックな理解を語ろうとすると、それだけでコミュニティから逸脱する危険がある。》

 上山さんの投入した「知識」が、その場に関連していないように受け取られた か、時機に適ったものではないと受け取られた か、ということだった可能性について、まずは考えてみたくなるわけです。(そして、そうした理由で問題が生じうるということは、その知識が「新聞で読んだ」ものであれ、「おばあちゃんに聞いた」ものであれ、「専門書で読んだ」ことであれ、変わりがありません。)

    • そもそも私には、上山さんがなぜ・どういう必要があって「支援現場でアカデミックな」語り方をしようとするのか、それがよくわからないのですが。

 たとえば、支援現場では「学校的なもの」が嫌われる、というようなことがあるのかもしれません。けれども、そうであるならば、知識を使うときに・それが「学校的なもの」に見えないようにデザインすればよいだけのことです。それが出来ないのなら そんな知識は使わないほうがいいでしょうし、逆にそうした知識が どうしても必要であるのなら それが手になじむなるくらいに・自在に使えるように 自分を 訓練すべきでしょう。そして ・・・これは、学問の問題ではありません(個々人が──「学問」を含む──様々な知識とどのように付き合うか、という問題です)。



お返事をいただいて、それまで自分でもうまく説明できていなかったモチーフを、分節し直す機会になりました。
これは、レポート『不登校は終わらない』の続編となるべきもので、私はこの話を、さらに考えなければなりません(いまだ拙いですが、これをこそ考えなければどうにもならないという性質のものです)。 機会を下さったことに感謝申し上げます。


私が問題にしていたのは、次のようなことでした*1

  • 今はすべてのポジションにおいて、《言葉(メタ)》のレベルと、《存在(オブジェクト)》のレベルが解離的であり、それが苦痛を強めている。 エスノメソドロジー(EM)の方法論は、そのことに切り込めるか。(私には EM が、メタとオブジェクトの関係について、既存学問とは違う方針をもっているように見える。)

これだけだと分からないので、敷衍します。

【本題に入る前のメモ】

    • 以下で私は、支援事業周辺にある秩序をいくらか描き出すつもりですが、これは仲間内に向けてパフォーマンスをしているのでも*2エスノメソドロジーらしく見えるよう努めているのでもなく、とにかく自分の必要に迫られて分節するものです。――もちろん《お返事》を目指しているのですが、「この件で返答するには、こういう事情説明をしなければならない」と考えた私の判断のほうが、むしろ説明を求められるかもしれません。
    • 私は、以下のような分節スタイルを必要としているがゆえに社会から逸脱し、ひきこもりのコミュニティから嫌がらせを受けるようになったとも考えており、かつ、この作業こそが苦痛緩和に必須だと感じています。 私は、苦痛緩和に何が必要かを考えながら、すでに認知された事業内に参照できる知見があるかどうかを探しています*3。 酒井さんもおっしゃる通り、EM はまずは苦痛緩和を目的とした事業ではないので、私の思惑が外れても、それはしょうがない。 ただ、意図された事業趣旨に「苦痛緩和」が含まれていなくとも、そこで用意された方法論が結果として参照できることはあると思います*4。 今回の私のエントリーは、私が必要だと思う分節(による返答)を試みながら、EM との接点を探るものです。
    • EM について、私はまだようやく3冊*5に目を通し、書店等で関連書をながめた程度で、どんな仕事が蓄積されているかを存じませんが、とりわけ私は、差別のエスノメソドロジーが何を問題にしているか*6に興味(と疑い)があります。 私の目には、社会学や左翼のコミュニティこそが差別の温床に見えており、かつそれが、「人をカテゴリーで処理すること」と結びついて見えるからです。 また差別問題は、単にPC的にばかりでなく、意識プロセスそのものの苦痛メカニズムにも関わっている*7
    • 社会関係においては、論じている自分の側が「永続的な役割関係」*8に絡め取られ、それが声に(あまり気付かれていない)条件を課している。 だからその条件を、単に「被害を訴える」のではなく、まずはそれ自体として描き出してみよう。――人々が従っている正当化の方法は、私にはとても耐えられないものです。



(2/6)につづく】


*1:合評会やブログで提出した質問は、こういう形にできていませんでした。

*2:受刑者がコードを語るように

*3:制度を使った精神療法》についても同じことです。

*4:逆にいうと、直接的に苦痛緩和を目指そうという主観的意図が、自分や周囲を苦しめていることがある。その主観的意図の秩序や前提が問題です。

*5:概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』、『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』、『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

*6:単に「反差別運動に取り組んだ」ではなくて、そこでどういう論点を用意したか

*7:これは、「差別されて苦しい」というのとはやや別のモチーフです。 そこで単に「差別は人を苦しめるからいけない」とは別の論点構成ができるかどうかに、勝負がかかっています。 そこを外してしまうなら、スタティックな規範との関係で自分を正義の味方にすればいいのですから、《みずからが構成されるプロセス》を論じる事業趣旨が見えなくなります。

*8:エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』p.189