内在性ゆえの、当事化の必要
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- 当事「者」という名詞形の問題が大きすぎるので、以下では当事化と、動詞形にします。その意味するところは、少しずつ考えてゆきます。
思想研究では、研究者じしんの《当事化》を義務づけるべき
「当事者=弱者」じゃなくて、そういう要因も含んだ上で、
自分たちの状況を確認したり、言説そのものの前提を確認したりするのでなければ、思想言説じしんが、状況の再生産に加担してしまう。
メタで高尚な話をする一方で、「自分の話」を始めた瞬間、ベタな自分語りしかできない
こういう幼稚な状況を、何とかしたい。*1
どういう立場であれ、議論は内在的でしかあり得ない。
言葉は身体から離れては存在しない。
内在性を免除される分析なんかない。
内在性という思想用語がありますが*2、これは単に居直れば良いのではなくて、
その内在が問題にならざるを得ない
ということではないんですか。
「当事者発言」とか、「当事者研究」という言葉があるけれども、そもそも内在性を免除される言説なんかない。研究者や支援者、あるいは公務員だって、《当事者研究》してもらわなければ困る。
内在的であるとは、当事者性を免除されない、ということ。
それを考え直す作業に、当事化という言葉を使っておきたい。
「当事者」と名詞化して、その名詞形ポジションに居直ること
まで問題化して、もういちど制作過程に巻き込む。
「ひきこもりに取り組まなければ」とか言ったところで、それは自分たちの制作過程を内在的に検証したことにはならない。加担責任が完全に棚に上がっている。内在性を免除されるポジションなんかあり得ないんだから、その内在性をともに検証するという意味で、協働的に《当事化》したい。
自分のあれこれを言葉にしてみたら、あるいは誰かとその作業を共有してみたら、あんがい思っていたのと違うかもしれない。また当事化は、それを組み換えることにもつながる。
知的言説でプライドを維持するが*3、生活者としては、
ひどい知見を反復する順応主義者でしかない
こういうことなら、もうその言説には参照価値がない。
(いくら参照しても、現状を変えられない)
正当化のスタイルが、環境悪化に加担している
現状の知的言説は、欺瞞的なアリバイ作りにしかなっていない。
もし各人の《当事化》作業が論文になるなら、状況は変わるはず。*4
ご自分の状況を、言葉にしてほしい。
思想や理論は、そのために参照できればいい。