狂信の武装解除は、狂信になっていないか?

廣瀬浩司氏のツイートより:

 イスラム国は国家の脱構築のひとつの帰結である。そのことはデリダはわかっていた



私がデリダに持つ疑念と、さらにもう一つ、
私の課題である《動詞形の当事化》に関係するように見えるので、
これはぜひ詳細に伺ってみたいです。


以下では私のモチーフを書いてみます。



脱構築は正義であり、正義は脱構築不能だ」デリダ氏)

ある概念や体系の内在的矛盾を指摘し、いわば内部から武装解除してしまうのが脱構築だとして*1、しかしその作業じしんは、再度の構築や維持であるほかない(でなければ、継続的な活動が成り立たない)。――そのとき、その再度の努力は、おのれの作業や成果について、充分な検証を伴っていられるでしょうか。


それが充分でなければ、脱構築を標榜する作品や活動じしんが、傲慢な正当性を主張することになります。「ほかの一切は脱構築可能だが、私の作品と活動だけは脱構築不能だ」というような。


デリダは「脱構築は正義だ」*2と言い、そのうえで「正義は脱構築不能だ」*3と言うのですが――これでは、《私が脱構築だと思うものだけは武装解除されない、自己検証も必要ない》になってしまう。なるほど、どこかの武装集団に似てきます。


これは同じことが、

 名詞形の「当事者」をそのつど解体し、引き受けなおそうとする当事化

にも言えます。



「国家」のような「当事者」

名詞形の「当事者」で囲われた役割と権利には、つねに矛盾や歪みが見つかります。*4


そこで、関係者すべてが自らの加担責任を検証し、
内在的な改編をもたらすのが、動詞形の《当事化》です。
「ああ、私は機能不全の官僚のように振る舞っていた」と。


この気付きと改編は、こり固まった意識や関係を解きほぐしてくれるので、基本的にはつねに有益なはずですが――ではそれを行なう私じしんは、じゅうぶんな《当事化》をやっているでしょうか。いつの間にか、既得権に居座ったりしていないか。いや逆にいうと、既得権に見えるものを守る必要のある瞬間だってあるはずです。


私が「当事者」を改編することの適切さは、何に保証されるのでしょう。
どこまで、どのタイミングでやれば、「これでよい」と言えるのか。
そもそも、そんなことをやる権利はあるのか。


人は誰であれ、いちど獲得した power や利権は、手放そうとしないものです。
あるいは、他人にはつねに当事化(自己検証的なやり直し)を要求するのに、
自分じしんは、硬直した権力や主張を手放さないとしたら。


そもそも、改編の要求に相手が耳を貸さないとしたら?
――人質を取って脅すのでしょうか。



武装解除させる暴力」は武装解除しない

ここで標榜されている、
「こり固まったものを自治的にやり直す」という趣旨そのものは、
理念としては受け容れやすいはずです。でも実際にそれをやるには、

  • (1)システムや利権に閉じこもる相手を武装解除しなければならない
  • (2)自分じしんが、不安なまま武装解除に応じなければならない

かりに相手を解除できても、そのために動員した自分の power への適切な解除がなければ、それは「より悪い暴力」になりかねません。そうすると、「こんなことなら、硬直したままのほうが良かった(昔のほうが平和だった)」かもしれない。*5

1980年代以降に日本で流通した「フランス現代思想」は、硬直した官僚主義や既存フレームへの異議申し立てだったはずですが、それは機能できたでしょうか。その言説は、それ自身のフレームによって、既得権(人事と業績)の枠組みになっていないか。ほんらい脱構築するべきだった現実への取り組みができないまま、それ自身が内部的な言説になっていないか。*6


――そもそも検証的な取り組みは、《業績》になりません。
与えられた評価体系で「実績を上げた」ことにしなければ、多くの人には次がない*7。むしろイレギュラーな検証などやれば、真っ先に排除されるでしょう。


同じことは、新しく立ち上げた事業についても言えるわけです。
脱構築とか、現代思想だけに限った話ではない。

 批判する側は、それ独自の評価軸を作ってしまい、みずからの方針については批判的になれない

これは誰にとっても、他人事でないはずです。



*1:東浩紀氏の整理に従うなら、これは「存在論脱構築」のほうになります。しかし本エントリで述べる狂信への疑念は、「郵便的脱構築」に固執する立場についても言えるはずです。

*2:「La déconstruction est la justice」(参照

*3:「La justice est indéconstructible」(参照

*4:名詞形の「当事者」は、ペーパーワーク(事務的な手続き)に必要な枠組みではあるものの、いわば官僚的な用語です。これを固定して分析を抑圧しては、動きの中での検証が進みません。

*5:不当な硬直を改編する動機づけは、その硬直で苦しむ側からしか生じません。――個人的努力や偶然によって「恩恵を受ける側」に回った人からは、改編の動機づけは失われてしまう(参照)。自己責任論は、既得権益層には好都合です――その言説そのもので恩恵を受ける側も含めて。

*6:失業や労務管理・高齢化や医療問題など、研究者じしんが巻き込まれざるを得ない(ということは、そこに脱構築が必要な)状況について、「文献研究とイデオロギー連呼」以上のことができているでしょうか。デリダを研究する論文を積み上げること自体が、産業として内部化していないか。▼関係者の問題意識が雇用に支配されるとしたら(「何をするのが就職に有利か」)、ひとりひとりの責任にするだけでは解決できないはずです。

*7:cf.「STAP細胞問題の〕究明に当たった人の多くは任期付の職にあり、本業で成果を出さないと次がない。この問題を早く終息し、通常の生活に戻りたいとの声を、何度聞いたかわからない。」(『日経サイエンス』のライター・古田彩氏のつぶやき) ▼『日経サイエンス』最新2015年3月号は、「特集:STAPの全貌」(参照