新しく届いた往復書簡*1の原稿で斎藤環さんが言及されていて、久々に映画館に観にいった。
本当にいい映画。
【以下、ネタバレ注意。 ただし、基本的に引きこもり論です。 また、映画自体は18禁です(参照)。】
すごく激しいセックス・シーンがあるのに、それが日常のナルシシズムとして描かれていない。 美しい女性が物象化されていなくて、オタク文化に窒息している目にはすごくラク。 女性が、政治的葛藤に苦しむ一人の人間として描かれている。
《関係性》を論考の焦点にする斎藤環氏としては、ワン・チアチー(マイ夫人)の最後の一言をこそ、ひきこもる人に生じさせたいのだと思う。 「こんな風になるはずではなかった、それでも・・・」というような、スキャンダラスな何か。
しかし、私たちはこの映画の顛末を、「観終わってから」語るしかない。 自分や家族や臨床現場に、あれが「起きるよう」待つのか。
斎藤環氏においては、すべてが “観客席から” 語られる。 名詞化され物象化された《関係性》が事後的に分析されるばかりで、いま目の前でどうすればいいのか、その着手の事情については、全くモチーフにならない*2。
昨今の知的言説は、メタ分析のナルシシズムと、その政治にばかり淫している。 読者もそのナルシシズムを共有すべく議論を追い、書き手と読み手でマーケットが閉じてしまう。 ▼臨床プロセスそのものとして生きられる、「順応のあり方自体への分析」*3は、環境と精神の風通しを良くするためには必須のはずなのに、ナルシシズムの政治において排除される。
受けいれられる分析と、受け入れられない分析とがある。 それは「難解さ」の問題ではない。 分析スタイルの問題だ。 誠実に分析すればするほど排除されると感じている私にとって、「日常生活の政治」は空語ではない。