「n−1」の当事者論


3・29ネグリ・イヴェントについての見解*1 すが秀実花咲政之輔

 上野千鶴子(東大文学部教授)は、「一九六八年年というのは私たちにとって、特別な年であった。その四〇年後である、この二〇〇八年に、在日と女が教授としてここに立っているのは、当時からしたら考えられないことであり、皮肉ですよね」と言った。上野の発言からは、当日のその官僚的空間に対する皮肉は聞き取れないのだから、このことこそまさに「皮肉」である。
 昨今の上野は『おひとりさまの老後』の著者として著名だが、その本は、すでに斉藤美奈子金井美恵子も批判しているように、女性ロウアークラスに対する配慮を欠いた、「勝ち組」女性のイデオロギーを敷衍したものに過ぎない。 (略)
 その本と同様に、上野のイヴェントでの発言は、「六八年」が提起したフェミニズムや在日の運動の今日的帰趨が「勝利」であることをことほいでいるわけだが(そういう側面があることは否定しない)、しかし、その「勝利」が、その場において官僚的空間へと変質していることに、まったく無自覚なのである。ネグリも不断に参照するドゥルーズガタリは、マイノリティー問題を論じて、その多数多様性が「1」に回帰することを警戒し、常に「n−1」でなければならないと言った。その日、安田講堂の演壇に立っている二人は、まさに「1」に回帰してしまった「マイノリティー」ではないのか。



ここでは、「在日」「女」といった、カテゴリー属性だけで与えられる当事者性(差別的に囲われた弱者カテゴリー)が、「1」として問題になっている。
「ひきこもりの経験当事者」というレッテルがあり、当事者役割を通じた取り組みを続けてきた私は、上野千鶴子姜尚中に連なるのが当然と見られるのかもしれない。 しかし私は、「n−1」の主張にかぎり、この声明文を支持する*2。 私がひきこもりのコミュニティや人間関係から排除されがちなのは、まさにこの「−1」をやってしまうからなのだ*3


「n−1」は、これだけ見ていても何のことやらわからない。
そこで、同じ趣旨で使われた文例を引用し、参照してみる。



「N−1について」(「三脇康生のフィールドワーク」第8回、2007.11.19)

 自分と他者が単に融合しているだけだ。 あるいはいい気になってN個の人格があるぐらいまで患者もスタッフもナルシシスムを拡大させるのが落ちだろう。 臨床心理学を学ぶ大学院生には、このマイナス1の方法を発明することを一緒に考えてもらっている。 もちろん孤立していたのでは何にもならない。 Nを恐れてはならないだろう。

 N−1とは、Nの融合の盛り上がりの中で、「ひける力」である。 しかし浅田彰が80年代に言った様に「冷めながら乗る」というようなことでは全くない。 そうではなくマイナス1は分析の力のことを指しているのである。 分析といっても精神分析を受けたらマイナス1できる訳ではない。 一応はうまく行っている状況を何が支えているのか、あるいは一応はうまくいっていない状況の何が疎外因子になっているのか。 それを分析して、その分析すら作品や治療に入れ込んでしまうことをガタリは働いていた病院で学び、哲学者のドゥルーズに伝えたのだ。

 N−1を理解しなかった日本では、マイナス1の繊細さを見失い引くときはドンビキして終わっている。 それが空気を読めることを強いて来る訳だ。 こういう暴力的な社会で生きるためにはオタクな喜びでも持つしかなく、そのネタはアカデミックな立場からは表象文化と呼ばれるものになろう。

 我々はNを求めて生きている。 それは確かだ。 しかし常にN−1をその中に入れ込むことこそが忘れられてはならない。 それが大変だから今流の「表象」に逃げるのではなく、NとN−1の間で往復運動するエネルギーを我々は獲得しなおす必要がある。 この往復を泥沼の再帰性と呼んで恐怖する論者もいるが、80年代の日本に紹介されたドゥルーズ=ガタリは、フランスの精神病院の一つであるラボルド・クリニックで「普通に」使われていた姿勢を紹介していたことを思えば、少しは状況を違ったふうに見ることが出来るかもしれない*4



「女」「在日」「ひきこもり」といった弱者カテゴリーや、正しいように見える事業プログラムへの順応において、人の集まりが「1」として成り立つ。 その「1」の全体性が勝利を祝おうとするときに、ディテールへの分析を口にしてしまうこと。 それはたいてい、「これでいいのかよ?」という話になってしまう。
順応主義によって捏造された正当性が、私たちの意識や労働を支配しようとするときに、「何が起こっていたのか」を分析してしまうこと。 それをわざわざ「抗議」と呼ぶ必要はないかもしれない。 分析は、それ自体として抗議となってしまうからだ(「-1」)。 逆に言えば、分析がなければ、その運動は抗議のかたちをした「1」かもしれない。 反体制は、それ自体として全体性や官僚主義を形作る。

    • マルチチュード」「プレカリアート」など、属性を通じた連帯を標榜する運動は、「1」を形作る。 それには一定の必要があるとして、問題はそこに「-1」が許される場所があるかどうか。 「1」の積極性や全体性に酔うだけでは、抗議の行動自体が、「批判なき順応」を強いてしまう。 ▼必要なのはむしろ、リアルタイムの「-1」を機能させる営みが広がることだ*5。 目の前にある「硬直した制度」は、それに順応する人たちから形成されている。



「お前は、順応しているのか?」という問いが、私たちを間断なく苦しめている*6。 人のつながりや人間集団においては、つねにその場への《順応》=《1への合一》が問題となる。 「n−1」は、「1への合一」において順応のナルシシズムにひたる私たちに、自己検証の継続を呼びかけ、その検証のプロセスそのものにおける参加を呼びかけている。

    • その意味で「n−1」は、フロイトの「終わりなき分析」に対比できる。 フロイトでは個人内面が焦点だが、ドゥルーズ/ガタリでは、集団の中にいる個人の、場所としての自己分析*7が問われている。



弱者性やマイノリティ性にもとづく当事者運動は、差別や全体主義との戦いであるはず。 ところが、ある属性が「○○当事者」としてカテゴリー化され、存在肯定の根拠となり、特権的な優遇や連帯が叫ばれたときに、それはいつの間にか*8差別的な全体主義や、官僚主義になっている。 何らかの “当事者性” はそのとき、他者を全体主義に巻き込む口実になる。 「お前は、○○らしく生きているか?」 「トウジシャに反論するのか!」*9



問題となっているのは、「批判されない正義」の暴力性だ。

「トウジシャを擁護しているから、これは無条件に正しいのだ」という言い方は、語り手を言及対象との具体関係から切り離し、語る行為をメタな安全圏に確保する。 そこでは、語りの正義を確保するために差別が温存され、正義は当事者カテゴリーに依存している(「n」への固着*10)。 支援事業は、苦痛のディテールよりも大文字の正義に酔い、実際に遂行された支援は、往々にして問題の細部を裏切る。 大文字のイデオロギーが怠慢を許し、一人ひとりの苦しみが抑圧される。


「n−1」は、何か大げさな反逆や正義というよりは、実際に起こったことの描写を通じた言及対象への介入であり、それを通じてお互いの関係を組みかえる作業にあたる(固定的な差別は認めない)。 《語る行為》は、メタに正当性を確保するのではなく、具体的な関係の中に埋め込まれている。 それゆえみずからも失態を犯し、「実際のところ何があったのか」が明らかになるのは、すべてを終えたあとになる(事後性)。 差別的な正義論や事業プランで正当性を確保する者は、自分のアリバイを死守するばかりで、みずからの経験を(自分自身を含みこんで)素材化し、検証することをしない。 「批判されない正義」が、事後的な検証を抹殺し、みずからの関与の当事者性を否認する。
《順応》を要求され、誰かへの負荷をかけながら生きるかぎり、私たちのナルシシズムには、自己検証の余地が残っている*11。 その余地をこそ当事者性と呼ぶならば、「n−1」は、ドゥルーズ/ガタリの当事者論だ。

    • 【追記】: すが秀美氏らは「立て看板+拡声器」というスタイルで活動されたそうだが、それでは駄目なんじゃないか・・・と思いつつ、「ではどうすればいいのか」と言われると、よくわからない。また、姜尚中氏の言動を単に非難するのも、構図として分かり易すぎる。 ここで目指されるべきなのは、「アリバイの確保においてみずからの暴力性を否認すること」ではなくて、「いかに正当に強制力を行使するか」だと思うから。 PC(Political Correctness)を確保すれば問題のディテールを無視していいとか、ましてや「暴力ではないあり方ができる」というのは、欺瞞にすぎない。 考えなければならないのは、「どうやって暴力になるか」だ。 ▼私はこのエントリーで「n-1」の必要性を主張したが、自分たちのいる場所を反省に付してしまうこの分析は、関係者のナルシシズムに激しく抵触し、強烈な防衛に出会う。 「これをすることに意味があるよね」と朴訥に主張すればうまく行くとか、そういう話ではない。 「n-1」を主張すれば、まずもって自分自身が暴力的に排除される。 そこから始めなければいけない話だ。


*1:本エントリーにおいて、強調はすべて引用者です。

*2:とはいえ、私はネグリ本人に興味がなく、来日中止のいきさつにもあまり興味を持てない。説得的だったのは、事務手続きと「権威ある欧米人」を問題にした「いしけりあそび」さんの説明だった。▼以下で検討する「n-1」の趣旨は、いわゆる “左翼的” 運動を批判する内容になっている。

*3:これまでの私は、いまだあまりにも《カテゴリー=存在》形の当事者性に流され、無批判に加担しすぎていた。これからは、いわば動詞形の当事者論が必要になる。私は、大きく舵を切る必要を感じている。

*4:【上山註】: 最後の1文のみやや理解しにくかったので、引用にあたって文意を変えない範囲で改変した。元の文では、「せっかく80年代の日本に紹介されたフランス現代思想の代表であるドゥルーズ=ガタリはフランスの精神病院の・・・」となっている。

*5:それこそが、「stand alone complex」(単独で頑張ってる人たちが、間接的に複雑なコラボを成す)ではないだろうか。

*6:順応を問われる本人であるという意味においては、当事者性を免除される個人はいない。

*7:制度を使った精神療法」における「制度分析」は、こうした分析のことだ。いわゆる「心理学化」においては個人心理が分析されるが、制度分析では、「関係=場所としての自己」が分析される。その際、単に他罰的に振る舞うことはできない。「自分自身を含みこんだ場所の分析」においては、自分にも何がしかの関与が生じている。▼ここでの「制度分析」は、「精神分析」への対比として理解するべき。

*8:というより、胚胎されていたロジックそのものにおいて最初から

*9:「n-1」は、いわば当事者による “人間宣言” だ。

*10:ここで「n」は、「全体性=1」と化したマイノリティ集団。

*11:「制度に保証されるアリバイとは別のところで、自分は実際には何をしたのか」