努力の方向(社会化のスタイル)が違う



メタな内容が間違っているのではなく、取り組み方が間違っている。 「自分のやっていることを《正しくする》とはこういうことだ」という、その方向性が違う。


私が、自分のやっていることを「理解されない」と言うと、メタな内容の難解さを言っているのだと思われる。 そうではなく、問題設定や解釈のスタイルについて、「取り組み方を間違っている」と言っているのだ。 努力の方針自体がちがうので、私が「何の話をしているのか」自体が理解されない。


社会関係とは、アリバイ関係であるため、人々は制度分析的なあり方*1をこそ危険なものと見なす(アリバイを壊すかもしれないから)。 そのつどその場で分析が成り立つような、そんな労働の仕方があり得ると思わないから、いま私が続けているこの作業も、「労働ではなく、私的趣味にすぎない」と見なされる。 自分の生きている場所を解体的に分析する作業が、人を楽にするものだと思われていない。 自分をアリバイで塗り固める「業績化」になりにくいので、理不尽にしんどくするサービス残業のように思われる*2
「自分はこんなにやってますよ」という方向だけがあって、遡及的分析の方向がない。 みんなの努力が、形而上学者の形しかしていないこと自体がひきこもりの温床だろうに*3。 そのことに、ひきこもっている人も気付いていない。


私がここで言っている分析労働は、たった一人ではとても維持できない。 分析労働すればするほど、ずたずたになってゆく。 分析の自由な空間は、一人きりでは維持できない。


努力が、最初から偏差値主義の形をしている。 「おりこうさん競争」。 社会化とはそういう競争であるという思い込み(フィールド設定自体がそうなっている)*4。 社会性のあり方自体が最初からメタ競争であり、再帰性の温床になる。 使用価値関係の検証がなく、メタな神々の闘争ばかりになる。 自分の足元の関係性を見ない。


各人がいま自分のいる場所で自分で取り組むという話が始められない。 アカデミシャンの制度順応的な権威欲に振り回され、ひきこもり論の最も核心な取り組みが抑圧される。


自分の引きこもり論をメタに権威化しようとする者は、周囲に押し付ける規範について、自分だけはそれに従わなくてよいとする。 みずからは非常に強迫的な順応主義者でありながら、ひきこもる人には「普通の人になろうとせず、多様性を尊重し、自分らしく生きましょう」などと言う(参照)。 説教をしている本人が自分を維持するためのロジックと、支援対象に要求しているロジックが違う。 最初から差別している――というより、論者が自分だけ特異点化している。


規範との関係で自らを特異点にするところに、分析労働の拒否と卑怯なアリバイ*5がある。 そうではなく、いま自分の居るところでいつでも分析を始めてよい、その分析労働をこそ成長させてゆくのだ、という意味での留保なき権威化が必要なのだ。 当事者カテゴリーを作ってそれを特権化*6したり、連帯のイデオロギーを押し付けるのは、アリバイの暴力でしかない。


私はここで、分析労働への着手のみをひたすら問題にしている。 いきなりメタ領域の競争に順応しようとするのではなく(それは努力の方向として、内在的に間違っている)、ローカルな対象的*7関係に、分析的に取り組むこと。 当事者性の政治化は、静態的カテゴリーの特権化ではなく、分析労働にみずから身を投じる動きの中にある。


労働過程を問題にしない、メタなだけの正当化は、臨床論として最初から間違っている。 それはアリバイ作りの方向でしかなく、再帰性の温床であり、着手過程の疎外を問題にしていない。 それは、ひきこもりの臨床論を最初から黙殺している。



*1:関係の中に置かれた自分に対する分析

*2:相手の順応主義を解除できないままでは、過労に追い込むだけになってしまう。

*3:ひきこもる人の意識は、社会参加している人たちの社会意識の戯画のように、極限的な形而上学者のようになっている。 それは「社会参加する人たちの似姿」であって、ひきこもる人だけが特別なのではない。

*4:各人における意識的努力の制度自体が、物象化のロジックに支配されている。 労働編成が、消費主義と制度順応ばかりになっている。 「社会化(socialization)」とは、それのことだと思い込まれている。 ▼私はここで、商品化や偏差値競争とは別のかたちの「社会化」を、プロセスとして問題にしている(みずからそれを実演しつつ)。

*5:特権化

*6:内容以前の、存在としての権威化(参照

*7:gegenständlich 【参照:「対象化されていない労働」(マルクス)】