結論ありきの支援論

朝起きるたびに、「順応するしかない」を思い出して吐きそうになる。
どこへ行っても、順応強迫のナルシシズムしかない。


「社会参加しなければならない」――着地点が先に決まっていて、あとはそれに合わせてできるかどうかだけが問題になっている。 課題だけが先に硬直して決まっていて、私はそれに合わせるしかない。 私の揺らぎより前に課題だけがある。 私はノイズでしかない。 だったら、生きている人間よりも課題だけが残ったほうがよい。


「生きなければならない」という課題だけがメタに先に決まっている。 《着手》こそが大事なのに。 取り組みのプロセスは徹底して置き去りにされる。 そこでこそ、支援者たちも自分の当事者性を忘れている。 だから追い詰めるばかりになる。 《着手》がなくて、《順応》の話ばかりになる。 「順応できた」の傲慢な自己顕示ばかり。


「生きなければならない」という課題だけを決めて後は本人を特権化するだけでは、メタなアリバイのもとで家族を監禁し、本人を順応主義に放置することになる。


順応強迫に苦しんでいる問題なのに、支援者や研究者自身が順応主義の形しかしていない。 それに、ひきこもる側の予定調和的な下心やナルシシズムが加担している。 「順応したい」が先に来るほど、結果的な順応は遠のく。 順応主義の倒錯者になるしかなくなる。