本当に独立した悩み方が始められるか否か。

集団的にはまり込んでいる努力や興味のあり方が、苦痛を再生産する枠組みそのものであること。


受けの良いことを目指すだけでは、集団的傾向それ自体の生み出す苦しみを対象化できない*1


本当に必要な努力モチーフは、まずはほとんど支持を得られない。


「努力や興味のあり方それ自体がおかしい」というのは、ナルシシズムの根幹にかかわるから、ほとんどの人は怒りだしてしまう。しかし、取り組まねばならない問題はまさにそういう形をしている。真剣にやっている、その真剣さのスタイルが間違っている。


人々の願うとおりの話――ひきこもる本人がそれを踏襲して優等生ごっこをしたがる話――をしてしまってはいけないのだ*2。 それは「彼らの悩みのルーチンに乗っかること」であり、必要な分析にはなっていない。
彼らのナルシシズムを満たせば、彼らは承認してくれる*3。でもそれは誤魔化しでしかない。


迎合した悩み方をやめねばならない。 「自分が悪い」と「社会が悪い」の往復しかしない悩み方それ自体を “治療” しなければ*4。 あなたが仕事だと思っているものは、必要な仕事ではない。



*1:かといって、「自分には分かってる」しか出来ないなら、それ自体が集団的妄想しか目指していない。いわゆる右翼や左翼は、糾弾のルーチンワークでしかない。

*2:その「人々」には、親御さん・医師・学者だけでなく、つまらない悩み方をする自分や、「他の引きこもる人」も含まれる。悩む人だから真実を掴んでいるわけではない。悩みは、まずは陳腐な苦痛を再生産するような形しかしていない。そこで「私たち」を作ることは、同じ間違った悩み方のパターンにはまり込んだ者どうしで慰め合うことにしかならない。問題への取り組み方にこそ勝負のすべてが懸かっている。

*3:孤立して別モチーフで仕事をしても、それは「シゴト」とは見なされない。承認と金を手に入れるには、ルーチンワークで他者のナルシシズムを満たさねばならない。

*4:ここでの「治療」対象は、自分と医師を含む環境そのもの(主観性と関係性の反復される集団的なあり方そのもの)だ。 対象化のあり方、問題設定のあり方そのものが間違っている。