惰性が最適解ではないとして

「くそまじめをすることで信用を作ろう」・・・・くそまじめしか出来ない奴に柔軟な相談はできない。


「最適解がわからない」という意味で、政治が分からない*1。 駄目な政治家しかいないなら、「誰も選ばない」が解になる、しかしそれでは回らない。 けっきょく惰性でいちばんダメな選択肢を “選んで” いる。 惰性で「それしかできなかった」ことと、意思的選択は見分けがつかない*2


何が合理的かは、周囲に誰がいるか、自分の主観性がどういう事情にあるかで違う*3。 合理性の解をプレイヤーでそろえてしか計算できないゲーム理論


ひきこもった経験を持つことは、日本の環境では信用を失うことに等しい。――主観性がうまくまとめられないことと、「ルールを平気で破る」ことが、他者からは同じに見える。


その人としてはそれが誠実なふるまいだったらしいが、こちらからはバカに見える。 「そういう固執を生きるしかできない」、誰であれそういうものかもしれない。 だとすると、説得はほとんど意味を持たない。


不当なメタ発言を防ごう――それがいま最も必要な気づきだ。 ここを説得するのにどんな事業が要るか。 分析家としての説得は、「わかってくれよ!」ではダメ。 技法的計算がないと、分析したことにならない。 独りよがりな「倫理性」に固執するしかできないナイーブさは、人を巻き込もうとする(手続きもなしに)。 これは周囲にとって、「同じナルシシズムに浸って一緒に死んでくれ」でしかない。



*1:自明性の喪失―分裂病の現象学』で描かれるアンネ・ラウのように(参照)、主観性をマネジメントするレベルでも

*2:不登校や引きこもりがそうであるように

*3:主観性の生産過程に固執する必要を感じない人たちと私では、必要な判断が違っている。 「気づいていないだけ」も含めて。 ⇒少なくとも、「気付いたうえで」それを選ぶ、という状態にしよう。 自分で自分の首を絞めながらそれに気づかず力を入れ続けるという状態がいつまで続くのか。