【2月6日】 丹生谷貴志 × 鈴木創士 【参照】

丹生谷氏がメインで語り、鈴木氏がコメントをさしはさむ形。 写真や映画の歴史、芸術という翻訳語のいきさつ、作家の具体例など、勉強になるレクチャーだった。

 芸術とは、うつろいゆく存在である人間が、大切なものを永遠化しようとして戦うこと。 《神=永遠》が活きていた時代には、永遠化を目指す芸術家の仕事は当たり前に理解され、一般市民との仲もよかった。 しかし19世紀になって《神=永遠》が死ぬと、芸術家の努力は「意味の分からないもの」になった。 現代人にとって、永遠は《死》以外にない。(丹生谷氏)

阪神大震災酒鬼薔薇聖斗事件への言及もあったが*1、気になったのは、《はかなさ》と《神=永遠=死》の対立や葛藤があるばかりで、《日常》と《非日常》の軸がなかったこと。
19世紀で《神=永遠》が死んだというが、酒鬼薔薇事件、阪神大震災サリン事件などでさんざん語られたのは、「永遠に続くかのような日常」の息苦しさだったはず。だからたとえば芸術家の役割は、「日常のさなかに、非日常の亀裂を作ってみせること」であり得る。そして実は、非日常を作り出すアーティストの存在自身が、その思惑まで含めて日常化してしまい、「もはや何をしても非日常にならない」という諦めがある。――そこで、《非日常をどう導入するのか》という選択は、思想的選択そのものにあたる。

 前衛を意味する「アヴァンギャルド」は軍事用語だが、今は敵が分からなくなっている。 《神=永遠》が失われ、前線が分からなくなり、何と闘えばいいのか分からない。 そもそも芸術はすでにやり尽くされたのに、なぜさらに新しいことをしなければならないのか?(丹生谷氏や観客)
 フーコーはある人から、「あなたの話はわかったが、結局どうすればいいんですか?」と質問を受けたとき、次のように答えたらしい。 「私は、あるシステムや規範が存在しなければならない理由は一つもない、ということを示す。 しかし私の話には、《どうすればいいか》はない。 私たちは、《どうすればいいか》の命令に慣れすぎている」。 (鈴木氏)

この理解は、いったんは必要だ。 「どうすればいいかを語ってしまうと、それがまた権力になってしまう」ということだろうが、そこに居直るだけでは、生き延びるために体制順応するだけになってしまう。 むしろ、すでに生きている関係を考え直し続けるべきではないのか?

 権力には芸術作品を生み出すことができない。 例えばゴッホの作品に対して、権力は反論できない。 反論できないものを、権力は所有するしかない。 (鈴木氏)

これでは結果物を全面肯定しただけで*2、大文字の反権力はあるが、作品が置かれた関係性や制作過程のディテールは無視されている(参照)。 そもそも、結果物を肯定する自分自身が他者への抑圧を生きているかもしれない、という危惧が感じられない。 私たちは、生きているだけで他者への抑圧であるはずだ。

 フーコーは、新しさというよりは、「別のしかた」を提案している。(鈴木氏)

「すべてに根拠はない」とすれば、どうせ何をやっても根拠はないのだから、「何をやっても同じ」になる。 あれをやってもいいし、これをやってもいい。 これは、80年代に「スキゾ」という言葉で肯定された「何でもあり」でしかない。 ▼むしろ、権力の根拠のなさに気付いたとしても、それに気づいた自分自身は相変わらず一つの権力を生きるしかないという「巻き込まれ」を引き受け、そこをこそ分析して動かすべきではないのか。
「もはや新しさはないというが、そう語るあなたは、自分のあり方を固定したまま、誰かへの抑圧を生きていませんか?」・・・・その問いを突きつける私じしんが、メタに立つことはできない。 糾弾者自身が抑圧者なのだ。
――と質問しようと思ったが、これはいつも私がトラブルになる焦点であり、その場でケンカになりそうな気がしてやめた。


その(2)へつづく】




*1:丹生谷貴志氏は神戸で被災されており、また酒鬼薔薇事件のときには、マスコミ報道より前に犯人を知っていたほど身近に住んでおられたという。

*2:この「全面肯定」には、批評的判断が全くない。 「なんでもあり」なだけ。 書籍『引きこもり狩り』で展開された「ひきこもりの全面肯定」と同じで、肯定するそぶり自体がたいへん権力的な硬直になっている。