あなたは、どうやって自己検証を免責したか

 「大昔、産経新聞の読者投稿欄の手紙を毎日20〜30通読んでからまともなものだけを論説のお爺さんに渡す係してました」 http://tue1972.tumblr.com/post/89152002545/hayakawa2600

右派の言説についての活写。
この記事を通じて、左派や宗教が同じ事情にあることにも気づかされる。


どこを向いても、《メタに確保されたポジションを通じて、党派内部に承認欲求をぶつける人たち》であり、不都合な実態分析を織り込むスタンスが見えてこない。*1


誰であれ、どういう立場であれ、党派性や修正主義の嫌疑はかかる。かたよりと否認の嫌疑を免責される立場や認識など、生身の人間にはあり得ない。それを免責される自分があり得ると思っている時点で、支持できない。


逆に言うと、右や左の狂信、居丈高なメタ談義が求められるのは、
まさしく《自己検証をしなくて済む》から。


自己検証を求められるとは、ふつうは「このまま現実を認めろ」にしかならない。そこに「あなたはそのままでいいから、相手や現実を否定しろ」の回路があったら――右・左・アカデミズム・宗教 等々、ひたすら他罰的な人たち。


* * *



見極める必要があるのは、自己検証の契機の位置づけ。
(個人的・集団的な作業として、そして制度設計として)


既存の思想的立場のほとんどは、
自己検証を「もうしなくて良い」が固まった姿でしかない。


《当事者》は、際限なく自己検証を求められるが(当事化)、現状の概念操作は、そうなっていない。当事者とは、自己検証を免責されるポジションであるかのように言われている。*2


自己検証を免責された名詞形《当事者》を通じて、
それを守ろうとする左派の狂信が許される。
――これは、右派と同じ回路にすぎない。




右か左か、宗教かそうでないか、そういったことは二の次でよい。
焦点は、

 自分や相手が、自己検証の免責をどういう回路で手に入れているか

この分析。



*1:これをテーゼとして言い続けるだけでは、私自身が他罰に終始して終わってしまう。

*2:「属性によるアイデンティティで居直りが許される」というような。