正義と臨床

最近ようやく分かってきたのですが、私が試みてきた活動は、ある意味では《証言》であり、最初から法的-政治的な側面をもちます。
痕跡と伝達をめぐるデリダらの議論*1は、法的-政治的側面は扱っても、臨床過程のモチーフがありません。 逆に臨床過程をあつかう制度分析や抽象機械には、最初から《証言》という要因がある
自分の置かれた状況について、自分を含みこんだかたちで分節しつつ、状況そのものを組み替えてゆく。 そこには、単なる痕跡暴露にとどまらない、内発的な創造をつうじての《証言》活動があります。 ▼それは、単に相手を悪者にすることでもない。 告発している自分にも(気付かない形ですら)暴力があり得るし、その判断のいきさつや考えかたの全体について、そのつどの検証が求められています。


ひきこもり臨床のカギであり鬼門である中間集団は、お互いの思想が鋭く問われる現場であり*2、事情の込み入ったトラブルが絶えません。 そのため、起き得るトラブルや関連法についての啓発活動、実態の暴露による環境整備などが必要ですし、紛争処理の方針が、直接の臨床上の立場になります。 どうしても既存の法律が役に立たないなら、支援をめぐる国会審議で法整備するしかない。――こうしたことを含めての制度分析であり、「制度を使う」ことではないでしょうか。
支援を最初から「医療化」に限定したり*3、凡庸な人生論に落とし込んでしまうと、政治性がゆがんでいきます*4。 また、社会参加臨床にどうしても必要な、紛争処理の政治性についての注意深さが失われる。(安易な党派性に埋没している人間ほど、こうした政治性に鈍感です。)*5

 被害者を駆り立てて訴訟を起こさせるのは、冷静に熟考された金銭的利害ではなく、加えられた不法についての倫理的不快感である。(p.48)
 自己の権利を主張する者は、その狭い範囲において法一般を防衛するのである。(p.83)
    イェーリング権利のための闘争 (岩波文庫)』より、強調は原文)*6

私的トラブルへの抗弁は、まったく私的でありつつ、法そのものを守る(創る)働きをする。
そして、理不尽さへの対応自体が、深い臨床効果をもつ


党派分析や臨床過程論まで織り込んだ、《正義と臨床》という議題設定が、どうしても必要です。

    • 孤立した人間が社会復帰するというのは、本当に危ない。


*1:エクリチュール

*2:社会復帰臨床は、必ず一定の思想的枠組みをもっています。 それが「ない」と言い張る集団には、強烈な抑圧やイデオロギーが機能している。

*3:精神医療と法にかんする議論は、措置入院責任能力論に限定されているように見えますが、それとは別枠で、「社会や集団の硬直や不正義」は、臨床と法の絡み合う重要なモチーフではないでしょうか。

*4:弱者性の競争、利権あらそい、分析の介入できない強引な仲間づくり等にしかなりません。 それ自体が、「社会関係の臨床」にとって害悪です。

*5:何が臨床として機能するか、という時点で、すでに思想選択になっています。 ある人に絶大な効果をもった方法論が、別の人には不評だったりする。――つまり、実は党派性のもんだいが、臨床の核に居座っている。

*6:2003年に亡くなった野崎綾子氏の著書『正義・家族・法の構造変換―リベラル・フェミニズムの再定位』で、交通事故における逸失利益の男女間格差を論じた後、最後に氏ご自身が引用した言葉です(p.204)。