意識されない党派性と、洗脳忌避のカルト化

多重人格性障害―その診断と治療』p.446、訳者の一人である中井久夫氏による記述(強調は引用者)

 〔翻訳を〕やり終えて、改めて、私の生涯の課題であった分裂病*1患者を思うと、彼らが、自己の解体を賭けてまで、自己の単一統合性を守り抜こうとする悲壮さが身にしみて感じられる。 かつてサリヴァンは、分裂病も一つの力動態勢(普通にいえば防衛機制)であるとすれば、何に対する防衛であろうかと自問して、答えを得なかった(『精神医学の臨床研究』週末部分)が、分裂病患者には催眠術がかからないという顕著な事実を思い合わせて、私はマインドコントロールに対する防衛機制ではないかという答えをサリヴァンに返したくなる。



統合失調症に関する議論は、ひきこもり問題で参照できると感じることが多いが*2、これもその際立った一例だった。

    • ひきこもる人は、「洗脳されては大変だ」という危機意識がカルト化している。 意識がせまく硬直し、融通が全くきかない。
    • 「洗脳されたくない」と過剰に思い込む人は、むしろひどく洗脳されやすい。(100%信用するか100%拒絶するかしかない)*3



最近の私がすこし元気になったのは、「お世話になっている人」に反論できるようになったことが大きい*4。 いきなりキレるのではなく、距離を保ちながら狡猾に交渉しており、昔の私からすれば「汚いオトナ」にあたる。 自分と相手の状況を、いわば俗世的に考えるようになった。 それは、フン詰まりで空回りしていた意識が、別のふるまい方を覚えたということ。


自分の根拠をすっかり奪われた意識は*5、過剰な居直りと過剰なガマンを往復することしかできない。居直りとガマンは、生成的な分節を禁止されたままだという意味で、同じ監禁の裏表にあたる。 ひきこもりのかたちで自分のワガママに居直る人は、息をひそめることでは異様に我慢強い。――いずれも、「命綱を手放して巻き込まれたら、もう二度と自分を回復できない」という強迫観念であり、鬼気せまる自己防衛に見える(それは容易に、たんなる弛緩に落ち込む)。


党派イデオロギーによる集団も、問題それ自体より、成員の「自我の都合」が先に来ている。集まりをつくるのに、主観的情念に人を巻き込まないといられない。情念が先だから、党派性を分析するといきなり粛清劇が始まる*6
人間集団のありようは、数十年前からさほど変わっていないように見える(参照)。


現在の集団的状況はあまりにひどく、単に反論をやめれば、問題意識がロボトミーされる。かといって怒りをそれ自体として述べても、周囲のナルシシズムに抵触するだけで、いわば「必要以上に攻撃的」にしか見えない。だれもがはまり込む党派性それ自体を主題化することに失敗している*7――どうするか。



*1:分裂病」という呼称が「統合失調症」に変更されたのは2002年のこと(参照)。 中井氏のこの文章は、2000年9月の日付になっている。

*2:状態像としての「ひきこもり」は、精神疾患によることもあるが(誤診がつねに問題になる)、ここで私が論じたいのは、疾患を第一因としない、いわゆる「社会的ひきこもり」について。

*3:ひどく幼稚だ

*4:そのためには、思想的格闘(と呼ぶしかないような取り組み)による内在的な自己治癒が必要だった。 「ひきこもりに思想的な議論は必要ない」という人は、どうしても過剰な精神主義や、過剰な幼児扱いになりがち。 努力のかたちと社会参加の方針が問われる「ひきこもり」では、思想こそが問われている。(ひきこもりでは、本人の努力それ自体が事態を悪化させる形をしている。このことを内在的に扱えている人が本当にいない。)

*5:再帰性に関連した、「疎外の内面化」という喫緊のモチーフ。

*6:いちど気がついてしまえば、まったく噴飯ものの幼児性だ。

*7:「終わりなき脱洗脳」を、漠然としたスローガンではなく、技法や制度のレベルで考えれなければ。 ▼「形式的禁止」は、そうした技法一つにあたる。どう転んだところで党派性は避けられないのだから、与えられた振る舞いをとりあえずは「形式的に」反復するしかない。党派性それ自体を際限なく忌避しようとすると、身動きが取れなくなる。