象徴界

 象徴界は言葉がおりなす複雑なシステムである。 言葉は、より正確にはシニフィアン」のことであり、これは言語の音韻的な側面、言い換えるなら、意味やイメージではないほうの側面を指している。 その作用は、人間生活の全般に及んでおり、意識される部分もあるにはあるが、無意識の部分が大半である。 (斎藤氏のレジュメ、強調は引用者)

人間の無意識と象徴界はほぼ等価と考えられる。


ラカン理論は、言語を中心として構築されている。 「人間とは語る存在である」(ラカン)。 語ることができる存在はすべて人間である。 言葉を換えれば、「象徴界に参加しているのはすべて人間である」。 極端で反駁しにくい立場といえる。


子供の発達段階からしてそうである。 「去勢」という、ラカン精神分析で非常に重要な概念があるが、これは「言葉をしゃべれない子供が、言葉を覚えていく過程のこと。 なぜ去勢かというと、乳児は、母親との境界もあいまいなまま、密着した母子関係の中で生きている。 密着して母親が万能に見えていた状態から、「母親は万能ではない」と発見して打ち砕かれる瞬間。 比喩的には、父親にペニスがあり、母親にペニスがないことを発見すること。 人間にとって大事な「ペニス」というものが、母親にはない(万能ではない)。 それが去勢のひとつのきっかけである、と。
ラカンの理論では、言葉の後ろにあるのはファルス(象徴化されたペニス)の機能であり、これが究極のシニフィアン(究極のシンボル)。


赤ん坊が言葉を獲得していく段階にはもうひとつあって、これはフロイトの「快感原則の彼岸」という論文に描かれる。 フロイトの孫が、母親(フロイトの娘)のいない間に、糸巻きを放り投げてまた引き戻す「Fort−Da遊び(いないいないばあ遊び)」という一人遊びをした。 ここでフロイトは、「幼児は、不在の母親の代わりに、その糸巻きをコントロールしているのだ」と思い至る。


赤ん坊の世界観においては、目の前に現前するものしか存在していない。 目の前にないものは存在しない、あるいは死んでいる。 そこを補うのが言語。 ▼いま目の前にない物や人はおそらく存在し続けているが、それは仮説でしかない。 なぜその仮説が信じられるかというと、言葉があるから。

 「母親の存在」の欠如を代理すべく、母親のシニフィアンを獲得すること。 これは、存在の欠如を、欠如の記号、すなわちシニフィアンという痕跡(しるし)に置き換え、「不在」と「現前」の統合をはかることである。 人間はそうすることで、不在のもたらす不安を、さしあたり持ちこたえることができる。 欠如している物事をシニフィアンの力によって、概念のレヴェルまで引き上げるということは、「事物の殺害」*1と呼ばれることもあり、これは「死の欲動」と関連している。 以上のことからわかるように、象徴的なものとは、それが占めている場所において欠けているものである。 それは基本的には失われた愛の対象、欲望の対象を指し示している。 (斎藤氏のレジュメより、強調は原文で下線)



言語を獲得して初めて人間になる。 言い換えれば、言語を獲得する前の子供は人間ではない。 フロイトに「子供時代はもうない」という言葉があるが、この子供時代というのは「言葉を獲得する前」ということで、その時代の記憶は残っているわけがない。 三島由紀夫は「自分が生まれたときの記憶がある」と言い張っているが*2、それはフロイトラカン的には「事後的に捏造された記憶」を信じているにすぎない。

 象徴界には穴が開いている。 これこそが「ファルス(ペニス=実在そのものの究極の象徴)」の位置であり、本質的には接近することもできない、究極の意味内容を独占している。 (レジュメより)

    • 【上山・注】: 「ファルス」は、よく論争の焦点になるはずだが、今回の講演ではほとんど説明がなく、ジャーゴンとして提示されただけだった。 口頭では「シニフィアン中のシニフィアン」と言い直されたが、これだけではよくわからない。





■斎藤氏のレジュメに無造作に引用・列記された、ラカンの発言 (強調は引用者)

 主体にとって構成力を持っているのは、象徴界の秩序である
 人間は象徴界の秩序に従って考える。 なぜなら彼は、彼自身の存在の中で、最初にそこに連れて行かれるのだから
 人間は象徴界の秩序の中に、主体として、彼の同類との想像的な関係に特有の裂け目を通じて入ることが出来る
 人間の象徴界の秩序への参入は、彼自身がパロールの根源的な隘路を通る以外の方法では可能にならない
 社会の構造は象徴的である。 個人は正常であればそれを現実の行為のために利用する。 精神病質者であれば、それを象徴的な行為として表現する。
 「父の名」は、象徴的な機能の支点として振る舞う
 象徴秩序の中では、空虚さは充満に等しい
 分裂病患者にとっては、すべての象徴が現実である
 症状は象徴的である
 象徴秩序は、言語によって構成されている
 欲求不満と排除との間には、象徴界現実界の相違のすべてがある
 象徴的な機能は象徴的決定のもとに従属している
 象徴的な決定は、第一に統辞の行為である
 人間は、彼の誕生に先立ち、あるいは彼の死を越えて、象徴の連鎖に取り込まれている
 象徴秩序は、それ固有の道具によってでなければ接近できない
 夢は常に、象徴的に分節されている
 象徴界想像界は、現実界との関係の中で相互を区分する








*1:「Le mot est le meurtre de la Chose.」

*2:仮面の告白 (新潮文庫)』冒頭