「つながりの作法」

拙ブログにおける、時系列の大まかな履歴です*1


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20090430/p2 

 臨床家や社会学者は「仲間が大事だ」というが、コミュニティ(つながり)の作法が提案されていない。 つながりの作法を旧来型に放置して、ベタに “つながり” を呼びかけてもダメ。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20090507 

 宮台氏は、ご自分がどういう《つながりの作法》を提唱しているかに、自覚的ではありません。

 性愛的なものも含めて、人間関係や集団には、すでに或る《つながり》の制作作法が生きられています。その作法を対象化せずに、「つながる」という結果だけを目指しても、暗黙の前提のようなものを押し付け合うことにしかなりません。



http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20090526/p1 

 ある議論を遂行するというメタ課題があり、その課題に実存のプロセスが支配されて、「つながりの作法」は暗黙に共有されたままになる。



http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20090609/p2 

 それぞれのコミュニティや性愛で成功した者たちが、《つながり》の成功事例として自分を押しつけ、そこで固定されたつながりの作法が、自己管理の方法を遡及的に決めつける。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100105 

 無理なら、つながりの作法を徹底して考え直さなければならない。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100202 

 つながりの《作法》こそが課題


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100209/p1 

 《孤立の承認》は、あるイデオロギー作法の反復であり、それ自体が連帯を補強している。 つまりそこでは、自分たち自身が生きている《つながりの作法=制度》が、問い直されていない。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100211/p1 

 分節過程そのもののスタイルを主題化し、《つながりの作法》を分節する労働が、なされていないのです(労働の欠如は、量的にではなく質的にある)。 このレベルを検討しないであれこれ論じても、同じ《人々の方法》にはまり込んで、同じルーチンでの言説が大量生産されるにすぎない。(言葉の生産態勢が、苦痛メカニズムの再生産にしかなっていない。)

 主観的には反差別を言いながら、秩序としては身分制そのものであるというのが支援周辺に見られる関係秩序(つながりの作法)です。 主観的意図として「反差別である」ことが、差別堅持の条件にすらなっている。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100222/p2 

 だから、なんらかのつながりが目指される時に、そこにどんな前提や関係ロジックが働いているか、常にチェックする必要があるし、私はそのチェックをこそ、臨床活動として、つながりの作法としたい。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100306/p2 

 つながりの作法を自覚しない関係性では、同じ正当化のパターンが反復されており、その意味での順応主義が当然視されています。 逸脱者に受容的な共同体でも、そのコミュニティ内部の《つながりの作法》は絶対的であり、そこからの逸脱は糾弾の対象になります。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100310/p2 

 現状のひきこもり政策や専門書には、《つながりの作法》という、最も重要な問題設定が記されていません。 だとしたら、何らかの形で手続きを見つけ(あるいは創り)出して、自分の怒りに公的な回路を与える必要がある。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100316 

 たとえば共依存関係や向精神薬固執する人たちは、《つながりの作法》を話題にされることを嫌がります。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100326/p3 

 たとえばこれが twitter の利点でありつつ、利点とばかりも言えません。 旧来メディアと同じく、発言行動がいつの間にか踏襲している《つながりの作法》を問い直すのが難しい。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100404 

 A.A. 氏との面会で体験したことは、「日本の知識人がフランスのカリスマに会う」ような設定とは、つながりの作法が違う。 この《つながりの作法》を、日本の知識人はまったく主題化しない。 これはフロイトが人間の集団として「教会と軍隊」を挙げたことと直接かかわる。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100409 

 集団的なプロセスとして反復される正当化のスタイルが、《つながりの作法》。 そこでは政治性と臨床性が濃厚にリンクする。 彼らの要求するつながりの作法に、私は激怒している。 しかしそれだけでは孤立してしまう。 この説得は、ものすごく時間のかかる政治活動。人が残るというよりも、つながりの作法が存続する。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100412 

 《つながりの作法》というモチーフの物騒さに誰も気づいていない。 あなたの語り口が押し付けている関係作法に激怒しているのに、何を知らん顔して語り続けているのかな。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100415 

 《触媒》をめぐるこの立場の相違は、思想上の立場を決定的に分ける。つまり思想は、触媒をめぐる《つながりの作法》に表れる。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100416 

 正当化のしかた = 「努力を再生産する指針」 = 「つながりの作法」 は、

    • 主観を硬直させ、追い込むメカニズムになっている。
    • この方針は、集団的に支えられている。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100425/p1 

 内側から問題にされた、つながりの作法


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100714 

 主観性の生産過程のスタイルは、《つながりの作法》であり、社会性のスタイルそのものだから、一人だけ別の主観生産をすれば、「異常」「人格障碍」のレッテルは避けられない。


http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20101126 

 斎藤氏の議論では、つながりの作法が主題化・再検討されることはない。 彼は自分と同様、メタな倫理構造(学問ディシプリンや病人役割)に自分を監禁する人をこそ歓迎し、自分がそのような関係作法を持っていることに気づいていない。




次の本が出版されたのは、その後です。

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

出版の日付は、2010/12/08
上に列記した私のエントリーは、すべてその前になされています。




*1:本エントリー内での太字強調は、今回新しく行なったもの。引用元の過去のエントリ分については、触っていません。