形式的禁止――無宗教ゆえの処方箋

内面や環境・関係性の技法として最重要の、

形式的禁止 + 再帰的組み替え

について、もとになった議論を引用しておく。


イデオロギーの崇高な対象

イデオロギーの崇高な対象

pp.59-70 より。 以下の引用部分で、強調は全て引用者。

 われわれのいう「社会的現実」とは、究極的に倫理的構成物である。 それは、ある種の「あたかも・・・・のように」に支えられている(われわれは、あたかも官僚制の全能を信じているかのように、あたかも大統領が人民の具現であるかのように、共産党が労働者階級の客観的利益の表現であるかのように、行動する)。 その信念(ここで再び思い出さねばならない。 信念は絶対に「心理的」レベルで捉えてはならない。 それは社会的領域の実際的機能の中に具現化・具体化されているのだ)が失われるやいなや、社会的領域の全体構造そのものが崩壊してしまう。 このことはすでにパスカルによって明快に表現されていた。
ちなみに、アルチュセールが「国家のイデオロギー装置」なる概念を展開しようとした時に、とくに言及した思想家の一人がパスカルである。 パスカルによれば、われわれの理性の内部性は意味をもたない外的な「機械」によって決定される。 その機械とはシニフィアン、すなわち主体がその中に捕らえられているところの象徴的ネットワークの、自動運動である――

    • 「なぜなら、われわれは自分を誤解してはいけないからである。われわれは精神であるのと同程度に自動機械である。そしてそこから、説得が行なわれるための道具は、たんに論証だけではないということが起こるのである。証明されているものは、なんと少ないことだろう。証拠は精神しか納得させない。習慣がわれわれの最も強力で最も信じられている証拠となる。習慣は自動機械を傾けさせ、自動機械は精神を知らず知らずのうちに引きずっていく。」(『世界の名著 29 パスカル パンセ 小品集 中公バックス』p.174、断章252)
    • 【仏語原文】: Car il ne faut pas se méconnaître, nous sommes automate autant qu'esprit. Et de là vient que l'instrument par lequel la persuation se fait n'est pas le seule démonstration. Combien y a-t-il peu de choses démontrées? Les preuves ne convainquent que l'esprit ; la coutume fait nos preuves les plus fortes et les plus crues. Elle incline l'automate, qui entraîne l'esprit sans qu'il y pense. (『Oeuvres complètes de Blaise Pascal』p.604、断章821-252)
    • ジジェクの挙げている部分英訳】: For we must make no mistake about ourselves: we are as much automaton as mind....Proofs only convince the mind; habit provides the strongest proofs and those that are most believed. It inclines the automaton, which leads the mind unconsciously along with it.  (『The Sublime Object of Ideology (Phronesis)』p.36)



 ここでパスカルは、無意識に対してきわめてラカン的な定義を下している。 「無意識のうちに(sans le savoir)精神を誘導している自動機械(すなわち死んだ、意味のない文字)」。 法には本質的に意味がないというこの性質から、論理的に、次のようになる。 われわれが法に従わなければならないのは、それが正しく、良く、われわれに利益をもたらすからなどではなく、単にそれが法だからである。 (略) 信仰のためのじゅうぶんな理由が見つかったから信仰する、というものではないのだ。
 したがって、法に対する「外的」な服従は、外的な圧力、いわゆる非イデオロギー的な「暴力」に屈することではない。それは、それが「理解不能」である限りにおいて、「指令」に従うことである。理解不能とはすなわち、それが「外傷的」「非合理的」性格を保持しているということである。このように、外傷的で統合されえないという法の性格は、権威を隠しているのではまったくなく、権威の決定的条件なのである。これは、精神分析における超自我なる概念の基本特徴である。すなわち超自我とは、外傷的で「無意味」だと感じられる命令である。つまり、主体の象徴的な宇宙には統合されえないのである。 (略)
 このように、「抑圧」されているのは、法の曖昧な起源などではなく、法は真理としてではなく必然的なものとして受け入れなければならないという事実、法の権威には真理は含まれていないという事実なのである。法の中には真理がある、と人々に信じ込ませる必然的な構造的幻想は、転移のメカニズムをそっくりあらわしている。転移とは、法という愚かで外傷的で辻褄の合わない事実の背後には「真理」「意味」があるという仮定である。言い換えれば、「転移」とは信仰の悪循環のことである。どうして信じなければならないかという理由は、すでに信じている者にたいしてしか説得力をもたない。
 この点で、パスカルのきわめて重要なテクストは、賭けの必要性に関する有名な断章233である。


【断章233、邦訳】(『世界の名著 29 パスカル パンセ 小品集 中公バックス』p.167)
君は信仰に達したいと思いながら、その道を知らない。君は不信仰から癒されたいと望んで、その薬を求めている。
以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。彼らは、君がたどりたいと思っている道を知っており、君が癒されたいと思う病から癒されたのである。彼らが、まずやり始めた仕方にならうといい。
それは、すでに信じているかのようにすべてを行なうことなのだ。聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどのことをするのだ。そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚かにされるだろう。
だが、僕のおそれているのは、まさにそれなのだ。


【仏語原文】(『Oeuvres complètes de Blaise Pascal』p.551)
Vous voulez aller à la foi, et vous n'en savez pas le chemin. Vous voulez vous guérir de l'infidélité et vous en demandez les remèdes,
apprenez de ceux, etc. qui ont été liés comme vous et qui parient maintenant tout leur bien. Ce sont gens qui savent ce chemin que vous voudriez suivre et guéris d'un mal dont vous voulez guérir; suivez la manière par où ils ont commencé.
C'est en faisant tout comme s'ils croyaient, en prenant de l'eau bénite, en faisant dire des messes, etc. Naturellement même cela vous fera croire et vous abêtira.
Mais c'est ce que je crains.



【英訳】(『The Sublime Object of Ideology (Phronesis)』p.38-9と、こちらを参照)
You want to find faith and you do not know the road. You want to be cured of unbelief and you ask for the remedy:
learn from those who were once bound like you and who now wager all they have. These are people who know the road you wish to follow, who have been cured of the affliction of which you wish to be cured: follow the way by which they began.
They behaved just as if they did believe, taking holy water, having masses said, and so on. That will make you believe quite naturally, and will make you more docile.
"But this is what I am afraid of."


 パスカルの最終的な答えはこうだ――合理的な議論はやめて、何も考えずにイデオロギー的儀式に従い、意味のない身振りを繰り返すことによって、頭をからっぽにしなさい。要するに、すでに信仰をもっているかのように行動しなさい。そうすれば、信仰は自然にやってくる。 (略)
 パスカルの言う「習慣」が、「あなたの信仰の内容は、あなたの実際の行動によって規定される」という無味乾燥な行動主義的な知恵と違う点は、信仰以前の信仰という逆説的な状態である。ある習慣に従うことによって、主体はそれと知らずに信仰をもっている。そのため、最終的な改宗は形式的な行為にすぎない。その行為によって、すでに信じてきたことを認識するのだ。言い換えれば、パスカルのいう「習慣」を行動主義的に読んでしまうと、外的な習慣はつねに主体の無意識の物質的支柱であるという決定的な事実を見落としてしまう。 (略)
 したがって象徴機械(「自動機械」)の外部性とは、たんに外にあるということだけではない。それは同時に、われわれの内的な「心の奥底の」「裏表のない」信仰が前もって舞台にかけられ、決定される場でもあるのだ。宗教的儀式という機械に服従するとき、われわれはすでに、それとは知らずに信仰をもっている、つまり、われわれの信仰はすでに外的な儀式の中に物質化されている。言い換えれば、われわれはすでに無意識のうちに信仰をもっているのだ。なぜなら、象徴的機械のこの外的な性質から、われわれは無意識について、それは根本的にわれわれの外にあり、死んだ文字と同じ地位にある、というふうに説明できるのだから。信仰とはすなわち死んだ、理解不能な文字への服従である。心の奥底に秘めた信仰と外的な機械とのこの短絡こそが、パスカル神学のもっとも革命的な核心なのである。



いっぽうギデンズは嗜癖を、あらゆる枠組みが再帰的に問い直される現代に不可避の症候として描いている。


The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and  Eroticism in Modern Societies

The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies

 嗜癖は、伝統が以前にもまして徹底的に一掃されており、また、それに相応して自己という再帰的自己自覚的達成課題がとりわけ重要な意味を呈するようになった社会の観点から、理解していく必要がある。 既存の様式や習慣がその人の生活の大部分をもはや規定していない状況では、人はライフスタイルの選択を、何とかやり遂げることを絶えず余儀なくされている。 そのうえ――この点が決定的に重要であるが――そうした選択は、たんに一人ひとりのとる態度の「外面」ないし識閾的側面であるだけでなく、その人がどういう人間「である」のかをも規定していく。 言い換えれば、ライフスタイルの選択は、自己の再帰的自己自覚的叙述の主要な構成要素なのである。 (邦訳『親密性の変容』p.113-4)

【原文】:
 Addiction has to be understood in terms of a society in which tradition has more thoroughly been swept away than ever before and in which the reflexive project of self correspondingly assumes an especial importance. Where large areas of a person's life are no longer set by pre-existing patterns and habits, the indivisual is continually obliged to negotiate life-style options. Moreover - and this is crucial - such choices are not just "external" or marginal aspects of the indivisual's attitudes, but define who the indivisual "is". In other words, life-style choices are constitutive of the reflexive narrative of self. (p.74-5)



かつてアルコール依存症を専門にし、現在はひきこもり外来に取り組む精神科医中垣内正和(なかがいと・まさかず)氏は、「アルコール依存症よりも、ひきこもりの方が治療は難しい」とコメントしている*1


再帰的問い直しが恒常化し、信仰を持てない者にとって、実定宗教を信じることはできないが、現象経験の外傷性に処するには、信仰の機能的等価物を意識という装置に設定せざるを得ない再帰的にすべて問い直すこと*2は、必要であると同時に、それ自身が暴走して破綻(=硬直)しかねない。


パスカルを引用するジジェクは、私たちの生活が常にすでに生きる《信仰》を扱うが、私はさらに、意識そのものにおけるコツを提案している。 どう転んでも、私たちは無意識的に何らかの信仰パターンを生きてしまっている(洗脳されたまま硬直している)。 であれば、それを形式的に受け止め位置づけるほうが、内面に風通しと自由をもたらす。
ひきこもる意識は、「一人カルト」とも呼ばれるほど硬直しているが(参照)、これは自分への問い直しが暴走してフリーズしたような状態。 合理性が暴走したことによるカルト状態と言える。 とはいえ、現象経験がついに外傷的でしかない*3とすれば、この暴走は無限に可能でしかない(つまり、有限な解決がない)。 だとすれば、まったく無意味な形式的禁止を導入して、これを臨機応変に組み替えるという方式を導入するしかない。



*1:週刊朝日』(2010年7月2日号)p.108 より。

*2:「もっと素晴らしい合理性を!」

*3:合理的説明があり得ない、無意味で理解不能で偶然的