いわば超越論的-素材的-唯物論的な、技法論

日本語では、《技》のあとに 「術」 「法」 「能」 とつけて、
それぞれ微妙に意味が違いますよね(技術、技法、技能)。
ちがいを説明しろと言われると難しいけど、
日本語ネイティブの人は、なんとなく使い分けてる。


英語だと、 arttechniquemethod あたりは、
「技芸/技術/方法」ぐらいに訳し分けて、理解してる感じでしょうか。


そのあたりを曖昧にしながら、以下の文章を読んでみてください。*1

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』pp.209-211 より:

 無意識は、意味の問題などではなく、ただ使用法の問題を提起している。欲望の問題は、「それが何を意味しているのか」ではなくて、それがどのように作動しているかである。欲望機械は、私のものであれ、君のものであれ、どのように機能するのか。どんな故障をともなうのか。故障もまた、欲望機械の使用法の一部をなしているのである。欲望機械は、どのようにしてある身体から他の身体へと移行するのか。いかにして器官なき身体に付着するのか。いかにみずからの体制を社会的機械に対決させるのか。従順な歯車機構が注油され、あるいは逆に地獄の機械が準備される。ここでは、どのような接続、どのような離接、どのような連接があり、総合はどのように使用されるのか。〈それ〉は何も表象しないが、〈それ〉は生産する。〈それ〉は何も意味しないが、〈それ〉は作動する。「それは何を意味しているのか」という問題が全般的に崩壊するところに、欲望が登場してくるのだ。

 言語の問題が提起されるようになったのは、言語学者や論理学者が意味というものを追い払ってからである。言語の最も高度な力能が発見されたのは、言語作品が、ある使用法にしたがって何らかの効果を生産する機械とみなされたときである。マルカム・ラウリー*2は、自分の作品についてこう語っている。それが作動するなら、それこそひとが望んでいることのすべてなのだ。「そう、作品は機能している。安心して下さい。なぜなら私は試してみたのだから」と。――ひとつの機械じかけである。

 ただし、意味というものは使用法以外の何ものでもないということが確固とした原理となるのは、私たちが正当な使用法を規定しうる内在的な指標をもっている場合だけである。不正な使用法とはこれと対立して、逆に使用法を、前提された意味に還元し、一種の超越性を再構築する。いわば超越論的な分析は、「それは何を意味しているか」という超越的実践に対立するものとして、まさに無意識の領野に内在するこうした指標を規定するのである。分裂分析は、超越論的であり唯物論的である。それがオイディプス批判をもたらし、あるいはオイディプスをそれ自身の自己批判にまで導くという意味において、この分析は批判的である。分裂分析が探求しようとする無意識は、形而上学的ではなく、超越論的である。イデオロギー的ではなく、matériel である。オイディプス的ではなく、分裂症的である。想像的ではなく、non figuratif である。象徴的ではなく、現実的である。構造的ではなく、機械状である。モル的あるいは群集的ではなく、分子的、ミクロ心理的、ミクロ論理的である。表現的ではなく、生産的である。だから、ここで重要なのは、「治療」の方向としての実践的な諸原理である。



「超越的」と、《超越論的》の違いに注意。
単に意味の領域に留まることが「超越的」とされ、それに対して、


生きる領野のさなかで、そこが再生産されるあり方を分析し直す作業が内的に生成する、それを通じて生きる場そのものが組み変わってしまう、あるいは組み換えようという動きが内発的に生じる――そういう分析と改編の生成を、「いわば超越論的」「素材的」「唯物論的」と表現している。そしてそれが、実践的な原理として、「治療」の方針という言葉に置き換わっている。私が《技法》という言葉で考えたいのは、このあたりのことだ。


つまりそこでは、「超越的」は、技法的な試行錯誤である《超越論的》を、抑圧するものでしかない。意味の定義とその論理的連なりだけで自己確証するのでは、私たちの生きている場を、やり直すことができないのだ。それは《治療の方針≒技法》として、間違っている。――というか、意味と論理だけを考える立場では、自分たちがすでに一定の《治療の方針≒技法》を生きてしまっていることが、忘却されている。私はこの忘却をくり返し話題にしている。


参照源は、グァタリの居たラボルド病院での臨床事業。
技法として、明らかに連続している。



上記引用部分の原文

"Capitalisme et schizophrénie. L'anti-Oedipe", pp.129-130 より:

 L’inconscient ne pose aucun problème de sens, mais uniquement des problèmes d’usage. La question du désir est, non pas « qu’est-ce que ça veut dire ? » mais comment ça marche. Comment fonctionnent-elles, les machines désirants, les tiennes, les miennes, avec quels ratés faisant partie de leur usage, comment passent-elles d’un corps à un autre, comment s’accrochent-elles sur le corps sans organes, comment confrontent-elles leur régime aux machines sociales ? Un rouage docile se graisse, ou au contraire une machine infernale se prépare. Quelles connexions, quelles disjonctions, quelles conjonctions, quel est usage des synthèses ? Ça ne représente rien, mais ça produit, ça ne veut rien dire, mais ça fonctionne. C’est dans l’écroulement général de la question « qu’est-ce que ça veut dire ? » que le désir fait son entrée.

 On n’a su poser le problème du langage que dans la mesure où les linguistes et les logiciens ont évacué le sens ; et la plus haute puissance du langage, on l’a découverte quand on a considéré l’œuvre comme une machine produisant certains effets, justiciable d’un certain usage. Malcolm Lowry dit de son œuvre, c’est tout ce que vous voulez, du moment que ça fonctionne, « et elle fonctionne, soyez-en sûrs, car j’en ai fait l’expérience » – une machinerie.

 Seulement, que le sens ne soit rien d’autre que l’usage, ne devient un principe ferme que si nous disposons de critères immanents capables de déteminer les usages légitimes, par opposition aux usages illégitimes, qui renvoient au contraire l’usage à un sens supposé et restaurent une sorte de transcendance. L’analyse dite transcendantale est précisément la détermination de ces critères, immanents au champ de l’inconscient, en tant qu’ils s’opposent aux exercices trancendants d’un « qu’est-ce que ça veut dire ? ». La schizo-analyse est à la fois une analyse transcendantale et matérialiste. Elle est critique, en ce sens qu’elle mène la critique d’Œdipe, ou mène Œdipe au point de sa propre auto-critique. Elle se propose d’explorer un inconscient transcendantale, au lieu de métaphysique ; matériel, au lieu d’ideologique ; schizophrénique, au lieu d’œdipien ; non figuratif, au lieu d’imaginaire ; réel, au lieu de symbolique ; machine, au lieu de structural ; moléculaire, micropsychique et micrologique, au lieu de molaire ou grégaire ; productif, au lieu d’expressif. Et il s’agit ici de principes pratiques comme directions de la « cure ».




*1:強調はすべて引用者。

*2:【ブログ注】: 邦訳では「マルコム・ローリー」となっているが、原文の「Malcolm Lowry」は『火山の下 (EXLIBRIS CLASSICS) (エクス・リブリス・クラシックス)』著者のことだと思うので(参照)、書き換えた。