マイノリティ擁護の周辺

次の(1)と(2)で対立した場合、トラブルは(1)に有利でしょう。

  • (1)歴史的に成立した分かりやすい「正義っぽさ」に依存できる。相手の巻き込まれる社会的葛藤を無視し、その場に出てきた言葉ヅラだけで「論争」できる。
  • (2)ちょっとした事情説明にも背景から説き起こさねばならず、膨大なディテールとプライバシーへの配慮を必要とする。さらには、自説が弁護し得ることを示すために、《新しい考え方》を導入しなければならないので、目の前の論点より前に、その《考え方》の説明から始めなければならない。

マイノリティの弁護には(2)が付きまといがちですが、
テーマそのものが社会的に承認されていない場合には、
このジレンマはほとんど絶望的です。


そうした状況で法律や学問を参照したくても、たんに参照できる話がないだけでなく、むしろそうした専門性は、敵対的ですらあります。誤解を撒き散らしたり、状況悪化に加担したり。


三者は、(2)の話は負担が大きすぎて聞いていません。
いっぽう(1)の話は、先入観の範囲でスムーズに理解できる。


言葉で説得しているかぎり、この状況は変わりません。
今すぐに状況が変わらなければ生きていけない側は、待っていられません。



PC的な議論は、多くが(1)です。

わかりやすい「正義っぽさ」で多数派を味方につける人は、格好良く見えるし、とりあえず誰かを擁護していれば、その擁護先からは歓迎されます。 でも実は、

 その論者ご本人に都合の悪いモチーフは、慎重に排除される。

こういう実態は、なかなか主題になりません。*1


「ひきこもり」状態は、言論人が隠したがるテーマでこそ苦しむので*2、肝腎の論点が公の場所から排除され、優等生ごっこでしかないような言説ばかりになります。


しかも耐え難いことに、この排除は、学問上の主張それ自体に基づいて支持されていたりします*3。議論すればするほど、医師や学者が業績を積み上げるだけで、問題はますます隠蔽される。それを褒めておけば、メディア上の振る舞いとしては成立するわけです。


こうした言説のとばっちりを受けるのは、実際に悩む本人です。
いくら格闘しても、業績にすらなりません。
決定的な論点が、モチーフとして《暗点》になる――医師や学者の業績のために。



*1:実はメディアは、「取り上げない」ことで、露骨なダメ出しを続けています。「ダメ出しをするな」をメディア・ポジションの人が言うのは、あまりにひどい欺瞞です。

*2:主観性や身近な関係性、あるいは《党派性》は、誰も取り上げようとしません。そこで苦しんでいるのに。

*3:意識的に隠されるだけでなく、(1)学問言説によって「扱わなくて良い」と分類されていたり、(2)既存言説でうまくやれている論者たち本人が、本気でモチーフを理解できなかったりする。「既存学問をうまくやれている」時点ですでに篩(ふるい)が掛かっているので、既存制度内で承認を得た理論言説だけに頼っていると、いつまで経っても扱われません。