ひきこもることと社会契約

ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)』より:

 だから純粋に公民的な信仰告白というものが必要なのである。その箇条を定めるのは主権者の役割である。それは厳密に宗教的な教義としてではなく、社会性の感情としてである。この感情なしでは、善き市民でも、忠実な国民でもありえないのである。主権者はそれを信じることを誰にも強制できないが、これを信じない者を国家から追放することはできる。主権者はこの人物を、不信心な人物として追放できるのではない。非社会的な人物として、法と正義を真摯に愛することができない人物として、そして必要とされるときに義務のためにみずからの生命を捧げることのできない人物として、追放できるのである。もしも誰かがこの教義を公式に是認したあとで、あたかもそれを信じていないかのようにふるまったとしたら、その人物は死をもって罰せられるべきである。この人物は最大の罪を犯したのであり、法の前で偽ったのである。(pp.272-273)

原文『Du Contrat Social』の同箇所のより:

 Il y a donc une profession de foi purement civile dont il appartient au souverain de fixer les articles, non pas précisément comme dogmes de religion, mais comme sentiments de sociabilité sans lesquels il est impossible d’être bon citoyen ni sujet fidèle. Sans pouvoir obliger personne à les croire, il peut bannir de l’État quiconque ne les croit pas ; il peut le bannir, non comme impie, mais comme insociable, comme incapable d’aimer sincèrement les lois. la justice, et d’immoler au besoin sa vie à son devoir. Que si quelqu’un, après avoir reconnu publiquement ces mêmes dogmes, se conduit comme ne les croyant pas, qu’il soit puni de mort ; il a commis le plus grand des crimes : il a menti devant les lois.



ひきこもる人の一部は、

「産んでくれと言った覚えはない」「産んだのだから責任とれ」

と言って、自分への扶養義務を親に押し付ける。
しかし、「産んでくれ」と言ってから産み落とされた人は、
そう言われた親を含め、人類史上に一人もいない。*1



産み落とされたことを引き受けることができるか

いつ「引き受けた」ことになるのか――というのは、
契約論の視点から整理しておく必要を感じる。


ルソーは、社会性の教義を受け容れた後になってこれを無視する者は、
「死刑になるべきだ」とまで言っている。では、

    • 何をもって「社会性の教義を受け容れた」と見做すのか。みんな、いつの間にか受け容れたことになっているが、「生まれてきたくなかった」という人は多い。
    • 産み落とされた後に、「こんな生は引き受けられない」と、受け容れ以前の段階で潰れてしまう人については、どう考えるのか。



「産んでくれと言った覚えはない!」と叫ぶ人も、
生き延びさせてもらっているのだから、恩恵を得ている。
→「そんな恩恵より、安楽死の恩恵を」?



本人が引き受けない生は、他のヒトの負担になる

    • 「社会性の感情 sentiments de sociabilité」を受け容れた後に引きこもる人には、死の制裁もやむなしか。*2
    • 自分の生を最初から引き受けられない人は、そもそも契約の中にいないとすれば、どういう理屈をもって社会保障の対象になるだろう。
    • ひきこもる人が「死にたい」というなら(つまり延命よりも安楽死がその人への恩恵なら)、安楽死の施設を用意すべきだろうか――選択肢として。



私は以前オフラインで、「死にたい」と言う人に

 では安楽死できる施設を作るよう、活動しませんか

と呼びかけたが、相手はそれきり黙りこんでしまった。



生まれてしまった人が、本当に死にたいと思っているのか

現実には、単に見捨てられる方向の政治や経済が動いていて、

 サバイバルするには、嘘をついてでも障碍者のポジションをゲットしないと、どうにもならない

と思う人が増えている、と感じる。


家族の援助も社会保障もなければ、自殺か野宿か、犯罪か。


→「単なる社会保障」でも「単なる自己責任」でもないかたちで、
取り組みなおす方向はあり得ないか?



規範/制作/マクロ状況

契約論の視点とは別に、あるいはそれと関連する形で、

    • 主観性そのものが萎縮している(制作過程としての意識の、技法の問題)
    • 「がんばります」と言ったところで、経済の状況がそれを許さない


規範は、技法の一要因

あくまで唯物論的に考えるなら、
規範は技法の一部でしかありえない。


《メタな意味世界》で完結しようとすること、つまり
主観性の過程までを「意味の静止画」に従属させる議論、それしか考えないスタンスは、考えるという作業において転倒している*3。それは、規範的にではなく技法的に間違っている。



*1:産み落とされる直前に、「産まれたいか否か」の意思確認をしてもらえるのが、芥川龍之介の描いた河童の世界だった(参照)。

*2:「ひきこもる奴らを殺したい」という声は、直接間接に何度も聞かされている。

*3:無時間的な意味の静止画を前提にする、「理論」と呼ばれる言説スタイルは、時間を生きる技法の一つにすぎない。