精神科病棟を、入院とはべつの賃貸物件にできるか

精神科の関連施設をめぐる議論は、多くが規範的です(患者さんを受け入れる「べきだ」)。先日も小児科医による反対運動が問題になりましたが(参照)――この医師を「規範的に」糾弾するだけでは、具体的にどう調整していくかが見えにくい。


左派系の議論は、規範的な誤りに見えるものを凄まじい憎悪表現でぶちのめそうとするので(左派のヘイトスピーチ)、持続的な関係調整を前提にした議論になりにくいのですね。いわば、ソーシャル・ワーカー的な配慮が見られない。


「迷惑」というのは、双方向的です。
患者さんがかける迷惑もあれば、古い地域住民が患者さんにかける迷惑もある。どっちかが過剰に我慢するというのも変な話です。――ところが、これを左派的に論じてしまうと、「住民はひたすら我慢せねばならない」みたいな、一方的な議論になりませんか。*1


規範的なバッシングは、自治的な取り組みにとっては、部分的にしか役立たない――それどころか、有害になる場面も多い。あるいは往々にして、偉そうに説教をするご本人が、自分の要求する負担を負っていません。*2



規範論のダブル・スタンダード

左派に人気のジル・ドゥルーズという哲学者には、精神病の患者さんに対する、「恐怖症」と言っていいような極端な拒絶がありました。*3
では、たとえばドゥルーズの隣りに患者さんが大挙して移り住んできた場合、彼はどうしたでしょうか。規範的な意識として「差別してはならない」と思っても、身体化された恐怖症を、そう簡単になかったことにできるか?――彼は、自分のほうが転居せざるを得なかったのではないか。*4


たんに「規範的に」考える限り、こういうダブル・スタンダードは尽きないと思います。そこで必要なのは、技法論的な、《具体的にどうするか》の話です。ドゥルーズみたいな人がいても、技法的な試行錯誤の問題で、いろいろ工夫すればよいだけでしょう。*5



「病院に住む」

こういう問題では、「病院にいる患者さんが、外に出てゆく」という構図ばかりが言われますが――病院だって、《町の内部》ではあるわけで。病院の中に、患者さん以外の地域住民が暮らしたっていいはずです。

 精神科病院のなかに、入院ではない形で、
 患者さん以外の人が住むことは出来ないだろうか

と考えていました。


精神科の病棟を改装し、外部向けに割安の賃貸物件を用意するというのは、現実味はないでしょうか。


患者さんへの配慮は必要ですから、賃貸の条件は「医師・看護師・保健師精神保健福祉士 etc. の有資格者に限る」などとして。*6――あくまで賃貸契約で、病院との雇用関係はナシです。患者さんへの配慮がなされるとしても、住民としての相互的な配慮の範囲内で。


精神医療系の技法や素養が共有された住環境は、誰にとっても快適であり得るでしょうから、むしろこの病院内の環境こそ、《外部》の地域社会が目指してよい方向だと思うのですが。*7



*1:それは患者さんを対等な交渉相手と見做さないことであり、差別的でもあります。

*2:「患者さんを受け入れろ」と言う本人が、自分の身近では引き受けていなかったり。――社会的ひきこもりと呼ばれる問題領域については、やたらと説教をしたがる人は、自分では何もやってくれません。「追い出せ」という人は、自分がその業務をやって逮捕されるリスクを負ってくれないし、「受け入れろ」という人は、自分の家に居候させたりはしない。いずれも、苦しむご家族に丸投げです。

*3:《ときには、ドゥルーズの方からグァタリに会いに行ったが、ドゥルーズは狂気に耐えられなかったので、ラボルドを避けて二人は会った。当時の共通の友人がこう語っている。「ある日、デュイゾンで、フェリックス〔グァタリ〕、アルレット、ジル〔ドゥルーズ〕、私の4人で夕食をしていたら、ラボルドから電話がかかって、誰かが城(ラボルド病院の建物)のチャペルに放火をして森のかなに逃げたと知らせてきたんです。ジル〔ドゥルーズ〕は青ざめ、私は椅子から立ち上がれずにいたのですが、フェリックスは応援を頼んでその男を探しに行きました。そのとき、ジルが私にこう言ったのです。『どうやったら分裂症患者に耐えられるのかね?』。彼は狂人を思い描くことも嫌だったのです」》(『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』p.18、強調は引用者)

*4:ドゥルーズの視点から見た施設コンフリクトはどうなるのか。研究者の見解を伺ってみたいです。

*5:規範論は、技法論的な問題意識の一部に織り込んで整理し直す必要があると思います。

*6:私は精神保健福祉士の有資格者なので、実際に割安物件があったら検討したいです。

*7:それを言うためには、病院そのものを町と呼んでいいような、《開かれた》状態が必要になります。