今日あらためて、制度論の許される環境でそういう分析をご一緒することがどれほど “臨床的” かを確認できた*1。 こういう体験は精神科クリニックに何万円払っても現状では無理。
肩書きと役割ポジションに自己監禁せねば、関係に参加できない。支援ですら「○○当事者」「医師」等の役割を遵守せねばならず、事業周辺の意思決定も信じがたいほど硬直している。何の意味もないが常識に受け入れられやすい部署に予算がたくさんつき、逆に細かく工夫された事業はイレギュラー要素が多いため予算がつかない。流れとなった「シゴトのしかた」は巨大な慣性をもっており、そこに竿刺す事業は体ごと弾きだされる。
100万人規模の逸脱を自己責任とだけ見ることは、それ自体が全体にとってのリスクとなる。
制度の隙間に生じざるを得ない言説は、受理される発表媒体が見つかりにくい。そもそもが火中の栗のうえに、必要な説得内容がどうしても複数領域にまたがってしまう。それは学際性というキレイゴトではなく、「やむなく複数の領域に踏み込まざるを得ない」という、いわば血みどろの問題意識。やらずに済ませられるならどんなに良いか。
たとえば「ドゥルーズ=ガタリ」と言っても、アカデミシャンはドゥルーズばかり論じて、ガタリのことは馬鹿にしているらしい。これはしかし制度的に作り出されている状況でもあって、ドゥルーズは過激に見えて実は《哲学》という伝統ジャンルにしっかり収まる。またジャン・ウリはラカンや精神医学を批判はするが、《精神科病院》という枠組みはしっかり守る。しかしガタリは、《はざま》に生じる問題意識をひたすら言説化し、そこを論じられる環境づくりをこそ社会に根付かせようとしたところがあって、それは私たちが生きるためにはどうしても必要な作業なのに、業績として認知されるにはあまりに不利な役回りを強いられる。
狭間にあって即興的な問題意識は、そもそもシゴトとして認知されるだろうか。 「主流派の流儀」だけで断罪されては、ジャンル自体が成立しない*2。 カテゴリーとしてのマイノリティは多くの人が論じるが、「シゴトのしかた」そのものについてのマイノリティ性は、登録すらされていないかもしれない。