「マルクス主義は、なぜ再び盛り上がりつつあるのか」(The Guardian) の一部より(拙訳、強調は訳者):
私たちが経済不況と闘うこと。そこに、マルクス主義が私たちに教えるべきことを持っている、もう一つの理由がある(階級闘争の分析よりも)。つまり、経済危機の分析である。最近出た恐るべき大著『無よりも少ない: ヘーゲルと、弁証法的唯物論の影』において、スラヴォイ・ジジェクは、私たちが今まさに耐えている経済危機に、マルクス的な思考を適用しようとしている。ジジェクは、基本的な階級闘争は、「使用価値」と「交換価値」の間にあると考えている。
この二つの違いはなんだろうか? ジジェクはいう: 各商品には使用価値があるが、それはニーズや欲求を満足させる有用性で測られる。いっぽう商品の交換価値は、伝統的に、それを作るのに必要な労働の量で測られる。現在の資本制において、交換価値は自律的になっている。
思いだしたのは、佐々木隆治氏の近著『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』(参照)。
この話は、社会参加臨床に決定的に重要な意味をもつと思う。(主観性の空転、関係性の破綻))
交換価値の論理で「働け」と言われると神経症的恐怖が肥大して収拾がつかなくなるが、
使用価値の必要から「働いてくれ」というのは、大した恐怖にならない。
とりあえず、意識と関係性の手綱が身近にあるからだ。*1
トスケイエスやウリの「制度分析 analyse institutionnelle」、グァタリの「分裂性分析 schizo-analyse」は、
使用価値レベルの《働き方》を模索し、提唱したものと言える。
「自律化した交換価値のシステムに、順応するしかない」*2―― その強迫化が発達障碍ではないか――というのが、私の基本的な疑念になる。そこで「schizo-analyse」は、アルゴリズムに別の分節原理を導入し、剰余価値とは別の強度を生きる試みだと思う。
それは、単に野放図な「解放感」ではない。人文的趣味に走ることでもなく、リアルな社会的緊張がある。
それはいつの間にか、政治性を帯びてしまう(既存の編成ロジックに抵触する)。
『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』で言われるスキゾは、発達障碍のことでは?(参照)
「社会が分裂化していくと思ったら、じつは発達障碍化してるじゃないか」 という意味だろうが、
それは 《あらゆる処理のアルゴリズム化、ルーチン化》 と理解すれば、
断片化・島宇宙化 と 発達障碍化 は、何も矛盾することではない。
編成の手綱をシステムに握られれば、私たちは断片化するしかない。
そこで必要な問いは、
分節と再編を、どういうスタイルでやり直すか。
科学やマニュアルの絶対視は、ルーチン化でしかない。つまり、発達障碍化への加担でしかない。
グァタリの「schizo-analyse」は、分節と再編に別の原理を導入するためにこそ呼び出されている。
断片の単なる肯定ではなく、断片化ゆえに可能になる新たな分節様式こそが提唱されている。*3
硬直したルーチンに対し、別の分節の必然を生きるのが「逃走線(lignes de fuite)」であり、
単なる逃避や酩酊では、分節の必然を生きられない。逃走線は、身体的な分節過程でしかない。*4
そこで創発される必然こそが縦軸(超越論性)であって、
それ以外の場所には、自律化した交換価値と、放置された物質しかない・・・。
労働過程の様式は、分析様式と切り離すことができない。
たとえばヘーゲルにおいて、思考は精神の労働であること。 マルクスはそれを、唯物論的な過程としてとらえ直している(参照)。
人間を「語る存在 parlêtre」と見るラカン派では、新しい働き方は「新しいディスクール」に相当すると思う*5。 そこで、制度分析や分裂性分析は*6、ラカン的な「分析家の言説」との関係で、整理する必要がある。 あるいはグァタリ側から見たときに、ラカン的なディスクールの分類(そのような分析様式)は、どう位置づけるのか。*7
*1:大草原で自給自足する家族が、仕事を分担する状況を考えると分かりやすい。あるいは震災の時に動きまわれたのは、「非日常だから」というより、「使用価値レベルのやり取りだから」ではなかろうか。
*2:「自律化した交換価値のシステム」と、「メタ化したディシプリンで暴走する学問言説」が、リンクする。
*3:私はそれを、資本制のみならず、《党派性》への抵抗と再編と受け取りたい。しがらみよりも、分節の野生の強度が勝ってしまうこと。
*4:誤読もあるだろうし、今や私なりの反論も抱えてしまっているが、このあたりが、『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』や『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』から受け取った成果だ。
*5:Wikipedia「社会的な つながり(lien social)」の項目に、ラカンの4つのディスクールが説明されてある。
*6:ウリは「schizo-analyse」というグァタリの主張や命名に怒っているらしいので、制度分析と同じには扱えない。
*7:2012年6月30日のシンポ「精神病理からみる現代―うつ、ひきこもり、PTSD、発達障害」で、パネリストの一人だったニコラ・タジャン氏は、「ひきこもる人の語りは、ラカンの分類でいえばどれにあたるだろうか」と、ラカン理論を自明視した発言をされていましたが、こうした問いは、そもそもラカン的な分類の位置づけを考え直さないと、前提なしには論じられません。それに、私たちの語りはすべてが、ラカン的な分類のどれかに当てはまるのでしょうか? そもそも分析のしかたには、「ラカン的ではない、しかしどうしても必要な」ものがあるかもしれない。いま私たちは、結論部分についてあれこれ言う前に、どのような分析事業をやろうとしているか、その事業の置き直しをこそ、迫られています。