「ひきこもる人の自殺」をめぐる解釈
【承前】 以下のような見解があり得ます。
斎藤環氏が「純粋なひきこもり事例には自殺がない」と言っているのは、うつ病や統合失調症の診断を受けていない人たちの話。ところが今回紹介された「KHJ親の会」のエピソードは、精神病圏もごっちゃにしている。だから、斎藤氏が「自殺はない」と言い、KHJ が「自殺は多い」と言うのは、当たり前。 自殺はほとんどが、うつ病や統合失調症の結果として起こっている。
これでは、自殺を選ばせる葛藤には、病気しかあり得ないことになります。*1
医療目線からは、自殺は「病気の結果」でしかない。
悩む本人からすれば、社会的・思想的要因を無視できない。
そういう平行線でしかないのかどうか。
言説の権威性が3つある。 【参照】
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- (1)医療・アカデミズム (2)社会運動体 (3)マイノリティ性を抱えた本人
それぞれが自分の内的論理で語るので、簡単な互換性はありません。
それを踏まえたうえで分析するには、簡単にどれかに依拠せず、語る必要があります。
少なくとも、自分がどの言説で語っているかに自覚的でなければ、「何がすれ違っているか」にすら気づけません。
医療言説による、「病気だから死んだ」への還元
ひきこもる人の男女比は、多くの調査で男性が女性の2〜3倍ですが(参照)、
これは自殺率の男女比とほぼ同じです。 直接の相関はともかく、いずれも男に多い。
この比率は国によって違うので(参照)、単純に生物学には還元できません*2。
様々な理由があるにせよ、たとえば自殺原因としてうつ病が決定的なのであれば、
男性の方がずっとたくさん、うつ病になっているはずです。 しかし事実は逆で、
女性は男性の2倍程度、うつ病になりやすい。(厚労省「うつ対策推進方策マニュアル」)
だとすれば、《うつ病 → 自殺》 という、単純な因果関係にも還元できません。
ところが「自殺はうつ病のせい」と言い過ぎることで、葛藤が病気に還元されます。*3
私が抵抗しているのは、こういう不当な割り切りに対してです。
適切な論点生産こそが、抑圧されている。
窓口を選んだ時点で、相談者はすでに分類されている
たとえば (1)地元の精神科医を頼る人、 (2)メンタルヘルスと関係ない行政窓口にアクセスする人、 (3)精神保健福祉センターを選ぶ人、 (4)民間支援団体をまず探す人、 (5)有名支援者をわざわざ選ぶ人、 (6)そもそも専門職に期待しない人 では、それぞれカラーが違います。
各所に定着した相談者を比較すれば、期待値や「キャラが違う」に留まらず、
診断学上の位置づけや重篤さの度合いについて、クラスタが違ってくるでしょう。*4
紛争や手続きに都合のよい解釈が採用される
自殺や引きこもりにはいろんな実態があり得ますが、強度に満ちた詳細な分析*5 は、いろいろと不都合になりかねません。マニュアル的な概念操作から、外れる可能性があるからです*6。 いっぽう「うつ病」等の医療カテゴリは、関係者を説得するのに非常に都合がよい。
社会的処理のアルゴリズム化(≒発達障碍化)が進む今後は*7、ますます「手続きに即した解釈」が採用されるでしょう。
これでは、全体としての社会環境は悪化するばかりだし、
行政系の「対策」も、ルーチン通りの解釈や証言に合わせてしまえば、空回りして当たり前。
これも一種の、「合成の誤謬」と言えそうです。
*1:2012年6月30日のシンポ「精神病理からみる現代―うつ、ひきこもり、PTSD、発達障害」の北中淳子氏の発表では、「覚悟の自殺はあり得るか」というかたちで、医療的解釈と、思想的・社会的解釈の拮抗が問われていました。
*2:「経済的理由で自殺する人は、男性10人にたいして女性1人という割合で男性が圧倒的に多い」(Chikirinの日記)。 リンク先の 警察庁の資料 を見ると、「経済・生活問題」を理由に自殺している人は、平成21年度で 男性7634人、女性743人。 平成22年度で 男性6711人、女性727人。 「10対1」というのは、誇張とは言えません。
*3:「うつ病なら抗うつ剤しかない」というわけで、医師と製薬メーカーだけが得をする。 「どういう解釈を採択するか」には、「それで得をするのは○○だ」が絡みついています。
*4:たとえば「相談者のうち、発達障碍が疑われる割合」を訪ねて回ると、窓口によって、あり得ないほど比率が違っています。 具体的に申しますと、「6%」 「10%」 「30%」 「70%」など。 文部科学省は、「小中学生全体の6・3%が発達障害」と発表したことがあります(2002年度)。 さらには(何度も引き合いに出して申し訳ないですが)斎藤環氏は、現在は「1割」と言っていますが、以前には「ひきこもり事例を2000例以上みてきたが、発達障碍はほとんど見たことがない」と言っていました(参照)。
*5:そうした分析は、公共性すら帯び得るでしょう。分析そのものの非人称の必然性が、私的利害の枠を超えてしまう。▼個別の結論以前に、こういう分析事業そのものが、臨床上の提案です。簡単にはアルゴリズムに還元できない分析を、やってみること。そのレベルを上げるにはいろいろと勉強が必要ですが、個別の「専門性≒ディシプリン」にハマるだけでは、順応ルーチンで終わります。
*6:たとえば過労死では、「本人のまじめな性格が、仕事上の要求以上に負担を大きくした」といった、場合によってはより実態に即したと言えるかもしれない解釈は、労働者側を不利に追いやることになります。それゆえ裁判実務では、詳細な分析はかえって忌避される(これは故・大野正和氏の指摘です)。 裁判に勝つには、「強制があった」という(もちろん嘘とは言えない)単純な構図が有益です。
*7:「かつては柔軟だったが、これからは硬直する」とは思えない。パターンからの逸脱は、つねに糾弾されてきた。変化するのは、そのパターンの設計具合だ。