和樹と環のひきこもり社会論(29)

(29)【「異常」なのか、「困惑」なのか】 上山和樹

 「ひきこもっている人の脳髄に、異常はあるのか」。これは、一度きちんと整理したほうがよいテーマですね。「社会参加ができない人」の存在をめぐっては、いまだに診断上の混乱が続いているようです。統合失調症との誤診もあとを絶ちませんし、最近の話題では、脳髄の異常が原因とされる「発達障害」が挙げられます。
 文部科学省からの発表で驚いたのですが、発達障害のある生徒は、小中学生全体の6・3%にも及ぶとのこと。各クラスにほぼ2人ずついる計算になりますが、これ、多すぎませんか。あと、行政の相談機関である精神保健福祉センターでうかがったのですが、最近では、あらゆるカテゴリーを含む相談件数全体の7割前後が「ひきこもり」を主訴としており、その多くが発達障害ではないか、とのこと。――どうも、社会生活に起こるトラブルが、「脳髄の問題」に還元されているように見えます。
 私たちが考えようとしている「社会的ひきこもり」では、脳髄に異常があるわけではないので、心の営みが根源的に破壊されているわけではない。それは、「病気や障害ではない」という意味では安堵するべきかもしれませんが、逆に言えば、「だからこそ難しい」とも言えるわけでしょう。統合失調症うつ病など、既存の疾患単位に回収できれば、医療や福祉のかたちで処遇を決められるし、家族も自分の責任を明確にできる。なのに「ひきこもり」では、客観的な状態像がどんなに深刻でも、あるいは家族がどんなに途方に暮れていても、医学的には異常が認められず、その存在をどう位置づけていいかわからない。「発達障害」のカテゴリーが注目された背景には、そういう切羽詰まった事情もあるように思います。
 前の書簡で、「自分や世界を引き受けることができない」と申し上げたのは、社会参加できない本人側の事情を、主観的に表現したものです。問題意識としては、斎藤さんの「自由の障害」と重なるものだと思うのですが、なぜ「視点が対立するかもしれない」と思われるのでしょうか。