軽率な診断発言について

ツイッター上での議論ですが、お返事があまりに長くなったことと、
広く知っていただきたい論点を含むことから、こちらに掲載します。
よろしくお願いします。



お返事ありがとうございます。
とはいえ、そもそも私の質問は、「おかしな断定はやめてくれませんか」 というものです。
ご自身の断定を無視し、逆に「上山さんはなぜ断定するのか」と言われても困ります。



論点は大きく二つです。

    • 【1】 議論の背景として、ラボルド病院やグァタリにつながる文脈を参照しながら*1、話が技法論の水準にまったく及んでいない。
    • 【2】 鑑別診断に人生を左右される人が膨大に出ている状況で、診断カテゴリを(どうやら比喩として)もてあそんでいること。

【1】と【2】 はふかく相関しますが、ここでは 【2】 を中心に説明させてください。*2



鑑別診断をめぐる、強い社会的緊張

今も社会問題として深刻さが懸念される「ひきこもり」周辺では、統合失調症や発達障碍、うつ病等の鑑別診断*3をめぐって、強い緊張が生じています。 グレーゾーンの疑わしい診断は、つねにある。 この緊張は、鑑別診断の結果によって、社会的処遇がまったく異なることによるものです。*4
病気や障碍と診断されれば、

  • (1)ご両親やご本人の心理的・社会的負担が軽くなる。 そして何より、



診断をめぐる緊張がこれほど高まっている状況で、

 大まかな言動を見ただけで 「アスペルガーの症状であろう」 と断定する

ことに、私は同意できません。*5
相手が本当にアスペルガー症候群という診断を受け得るなら、適切な社会的処遇をあらためて検討すべきです*6。 しかし、「性差を無きものにする」という主張を行なっただけの人を*7アスペルガー症候群」と診断してみせる――こんな発言に、言葉遊び以上の意味があるのですか。


状況に与える迷惑をまったく理解せず、「あの作家はスキゾだ」「アスペルガーだ」などと連呼することは、むしろそのような振る舞いじたいが発達障碍的(言説パターンの固着)です。 【この箇所について、ご批判を頂きました。本エントリ後半にある追記をご参照ください。】



比喩や連想としての診断名

言葉通りの鑑別診断とは別に、議論上の必要から診断カテゴリを参照するのであれば、
次のような配慮が必要なのではありませんか。

 「○○の言説には、アスペルガー症候群と診断された人たちの言説と、似た傾向が見られる」

と、たんなる比較であることを明記した上で、

    • (a)どのような意味において「似ている」と言えるのか
    • (b)なぜ似るという事態が生じているのか
    • (c)今後はどのように、言説環境の改善を図ればよいか

――これらを踏まえた上で、技法上の議論をすべきなのではありませんか。*8


鑑別診断をめぐって、これほど緊張の高まっている状況で、「あれはアスペルガーの症状であろう」などと言えば、額面どおりに受け取られて当然です。またその軽率さは、技法をめぐる言説環境をさらに悪化させるでしょう。
私は、こうした言説に重大な影響を受ける立場の一人でもあり、放置はできません。



診断――社会的処遇や技法をめぐる判断の必要から、行なうもの

発言者にそのつもりがなくとも、「診断」された相手は、おだやかではいられません。
診断業務を独占する医師に絶大な責任があるのは当然として、
誰であれ「診断名をあれこれ言う」のは、技法や処遇をめぐる緊張状態に参入することです。
その緊張を理解せず、「あいつはアスペルガーだ」などと連呼するのは、
「診断」という超越ポジションを気取っているだけでしょう。*9



相手を「診断する」振る舞いは、免責されません。

そもそも志紀島さんは、「要素現象」の話まで持ち出して(参照)、厳密な鑑別診断論をされています。
アスペルガーの断定のみ「診断ではない」とは、どういうことでしょうか。


三島由紀夫はスキゾだ」等々とおっしゃるのも(参照)、
誰かが本気で反論を始めたら、「どうしてそういう曲解と断定をするのか」と言うおつもりですか。


あらためて引用しますが、あなたは今回、次のように発言されています。

「性差を無きものとしようとする」だけでアスペルガーと診断してもらえるなら、
私もそれっぽい主張を研究し、演技すれば、発達障碍の診断をゲットできるのでしょうか。
それは違うし、そんなことを目指すべきでもないとすれば、議論の設計図を変えるべきです。





今後に向けて

今回は志紀島啓氏の発言を取り上げさせていただきましたが、
同様の言説パターンは、多くのかたが踏襲しています。 「ポストモダン」にも限りません。


「時代は変わった。いまは○○病の時代だ」等の発言はあちこちで見ますが、
むしろ問題は、そのような《論じかた》が、昔とさっぱり変わらないことです。
印象論で時代を「診断」しても、メタ目線で悦に入ってるだけでしょう。


本当に必要なのは、論じる側の技法を組み替えることです。


診断名を口にしたがる超越ごっこは、たんに知的に不誠実というのみならず、
技法上の誤りを実演しています。
ご本人たちは、それが「技法上の誤りである」という認識すら持たないでしょう。
今度は私たち自身が、「別の技法」を探さなければ。*10







【この小節のみ、エントリから3時間ほど後の追記】

「むしろそのような振る舞いじたいが発達障碍的」 と書いたことについて、ご批判を頂きました(参照)。
ご意見、ありがとうございます。 実はこの箇所を残すかどうか、最後まで迷いました。
できればこの点について、いろんな方との議論を続けたいため、
今すぐに撤回するのではなく、若干の追記をして、保留とさせてください。


議論の前提として私は、次のような疑念を持っています。

 たんに思考の硬直であって、いくらでも改善の余地のある状態まで、
 《発達障碍》 と診断され、脳髄の問題とされている可能性はないのか。



問題意識の中核は、情報処理の平板化や、言説パターンの硬直的な反復です。
現状では、これは脳髄そのものが原因とされていますが、私はその専門家言説に疑念があります。
誰かを「発達障碍」と診断する医師や知識人を、言説の様式において問題視する必要を抱えているわけです。*11


つまり私の議論は、発達障碍という診断カテゴリそれ自体を問い直すことが前提です(参照)。
メタレベルにいるはずの「診断者」が、じつは診断対象と似た思考パターンを反復している――そのことを問題にしたい。


そこで、厳密な鑑別診断とは別に、

 専門家や学者たちじしんが、発達障碍的な思考に陥っている

という論点表現は、有益だと判断しました。
診断のメタ言説に縛り付けられ、硬直している状況全体(患者さんと専門家の両方を含む、私たちの集団的な状況ぜんたい)の改善に、メタ・レベル と オブジェクト・レベル のシャッフルが意味を持ち得ると考えるからです。


批判を下さった酒井さんがどういうご趣旨か、詳細はまだ分かりませんが(機会があれば伺えればと存じます)、私が現時点で自分の発言に抱き得る懸念は、

    • 結局それは、精神科の診断カテゴリを安易なレッテル貼りに使うという習慣を、補強してしまうのではないか

ということです。


同時代的で集団的な思想傾向を、「解離的」「発達障碍的」などと診断名で表現する議論スタイルは、医師や社会学者など、メタ的な視点を誇示する複数の論者に踏襲され、一定の議論ジャンルのようにもなってしまっています(参照)。 ひとまず私は、そのような議論をやめ、私たち自身の集団的な技法論に立ち戻りたい。


これは実は、今回冒頭で言及しつつも扱えなかった 【1】 の点、つまりフェリックス・グァタリらの議論に関わります。活動上の技法を提案するのに、わざわざ 《schizo-》 という言葉を持ち出す必要があったのかどうか。――詳細は今回は無理ですが、グァタリらの文脈では、「スキゾ」は同時代的な思想状況を漠然と論評したのではなくて、焦点は技法上の提案努力だったわけです。 つまりそれは、現在「発達障碍的」「解離的」等々と論評される状況に対する、具体的な処方箋の話だった。技法の内実を論じるのに、《スキゾ》という概念を説明的に持ち出した。
ある言説傾向を「発達障碍的」と形容するべきではない、という議論は、積極的な提案について言われた「スキゾ」についても、否定的に流れざるを得ないと思いますが、私はここについて、もう少し考えてみたいのです。


また、私じしんは診断としては神経症圏のはずですが、今回「発達障碍的」と申し上げたような、硬直した思考傾向に苦しんできました(参照)。 これは私の引きこもり論の、ひとつの中核を成しています*12。 つまり、社会生活の中で成立する自分のことを話題にするにも、診断学から出現した「発達障碍」という枠組みは、利用価値が残されているように思います。――これは、あくまで私たちの《集団的なやり方》を考え直そうとする努力です。


以上を追記し、ぜひ皆さんのご意見を伺いたいです。
【エントリ後の追記はここまで】



*1:アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』など

*2:【1】 の詳細については、私自身があらためて仕事を作らなければならないと存じます。

*3:鑑別診断とは、「この人は病気なのかそうでないのか、病気だとして、似た病名のうちでどれなのか」 を、言い当てる仕事です。 治療指針や裁判結果まで左右する公的な判断であり、たいへん大きな社会的責任が伴います。 医療実務では法律上、医師にしか許されていません(独占業務)。

*4:担当する不登校児童の全員を「発達障碍」と診断した精神科医を伝え聞いていますが、これは政治的意図をもった確信犯と言えるかもしれません。

*5:志紀島啓氏と懇意にされている皆さんにとって、今回の発言は自明なのでしょうか。

*6:相手を批判するにしても、診断上の結果を考慮すべきでしょう。 「発達障碍なら批判してはいけない」ということではなくて(これ重要)、言説をめぐる状況や責任・関係性等について、配慮のあり方が変わってきます。

*7:ここでは、「ある公的な主張を取り上げ、それを精神科のカテゴリで診断してみせた」という振る舞いが問題なので、「性差を無きものにする」と言われた主張内容そのものや、そこで取り上げられたフェミニズムの文脈については、何の判断もしていません。

*8:そこには、発達障害論そのものへの疑念も含まれます。文化的・社会的に、あるいは技法のレベルで生じているものを、器質因と見誤っていないかどうか。

*9:香山リカ原発推進を「病気だ」と言ったのと、何が違うのでしょうか(参照)。

*10:私が本ブログほかで、「名詞形をもとに議論するのではなく、動詞のあり方を問題にしましょう」としつこく繰り返しているのは、そういう趣旨のお話です(参照)。

*11:これは逆にいうと、発達障碍とされる人たちへのある種の《批判》が、臨床像の改善に意味を持ち得るという仮説にもつながります。思想の硬直が問題なら、それを解きほぐす作業ができれば、「脳髄」など問題にしなくてもよいはずです。

*12:斎藤環氏ならば、「自由の障碍」と呼んでいたような状態です。 THE BIG ISSUE JAPAN 45号を参照。