いま支配的な語りは、みずからの当事者意識をなかったことにする

「当事者」という語を使いたがる界隈は、むしろみずからの加担責任についての当事者意識を持たない。*1

当事者意識を免責するきれいごとの語りこそが、メディアや大学で無責任な支持を得ている。*2

名詞形の「当事者」ではなく、動きの中で加担責任の内実を問われる「当事者意識」――本当に問わなければならないのはこっちだ。

  • 当事者意識というのは、その語を持ち出したからと言ってなにか即座に正当性が確保できるようなことではない*3。時間をかけてゆっくり取り組むしかないような課題だ。
  • 「自分で自分の問題を考える」――そうした態度に敬意が払われず、これみよがしのポリコレ談義ばかりが業績となる――この腐った状況。「当事者」という語は、むしろ責任逃れの口実となっている。*4
  • 思想の分類軸として、「当事者意識はあるか」が検討できる。自分を棚に上げて平気でダブスタをやるような語りなのか、そうではないのか。
  • 「カルト的」と言われるような態度は、自分の言動についてのみずからの加担責任を不思議なほど無視する。




*1:たとえば社会学界隈は、「しばき隊リンチ事件」隠蔽についての当事者意識を拒絶している。社会学は、「当事者」という語を振りかざす振る舞いで中心的な役割を果たしている。cf.『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

*2:最近のラカン精神分析が、無時間的・メタ的な精神病理学の語りに耽溺し、分析家の加担が問われる短時間セッションの問題に向かわない理由は何か。精神分析こそ、「自分の話」が必要だったのではないのか。

*3:紅衛兵のような他罰的な態度に終始することは出来ない。

*4:上野千鶴子氏「私は嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」Q:つまりデータを出さないこともある?「もちろんです」Q:それはいいんですか?「当たり前よ」~このぶっちゃけに、いろいろ反響 - Togetter