「自覚されないままの生産様式」としての党派性

党派性というと、
怒り出す人があとを絶たないし、「いつでも勝てる議論だ」とも言われる。
しかし、これが生産様式を問い直す議論であると考えれば、
その必要性も見えてこないだろうか。


論じる自分も、一定の生産様式を生きている。
そしてそれは、必ずしも適切な形をしていない。
その「適切さ」は、ある形を実現したらもうそれでOK、ではなくて、
つねに改編を迫られている。*1
本物の時間を生きるとは、そういうことでしかあり得ないじゃないか。


《論じる》とは、固定をもたらすものとされる。

 結論は間違っているかもしれないが、その「方針」だけは揺るがない

と、本気で思い込まれている。
あなたのような生産様式で固定しては困る。こっちは生身なのに。

 生産様式と生産関係をすでに生きていて、リアルタイムで変動せざるを得ない

――その意味での党派性を話題にできている論者は、今のところいない。
各論者は、自分の思考方針は当たり前だと思い込んでいる。
問い直しの必要があること自体が、忘却されている。



「ひきこもり論」は、表題の問題ではない。

論じる自分のリアルタイムの党派性を、つまり生産様式を主題化できていないなら、
タイトルでいくら「ひきこもり」を掲げていても、
それは原理的には、ひきこもり論ではない。
私が「ひきこもり論をやっている人がいない」と思うのは、そういうこと。



*1:「終わりなき分析」(フロイト)の、焦点をずらした形とも言える。気づかれないまま放置された生産様式は、なくすことができない。いちど明晰に理解すれば、それで党派性がなくなる、というものではない。《党派性≒生産様式》があるとは、身体があるということに等しい。身体性を、中立公正に自覚し尽くすことは出来ない。