論争の焦点となっているのは、以下のくだりです。
大橋仁:〔…〕2005年くらいからプライベートでタイの売春宿に通い、撮影を始めたんです。とはいえ、金魚鉢での撮影はそうそう簡単にはいかないわけですよ。だって、文字が読めない人にでも撮影禁止であることが分かるように、カメラのイラストの上に大きく"ばってん"を記したシールがそこかしこに貼ってあるんだから。
でも俺はそこにカメラを持ち込んでぱちぱち撮るわけ。しかも暗いからフラッシュたいちゃってね。もちろん、女の子はそれに気付くとパニック状態。しかも、何枚も何枚も撮り続けるから逃げ出しちゃうし。
タイのセックスワーカーを、相手の同意を得ずに撮影したとしか読めません。
さらにこの「作品」は、東京都写真美術館で展示されています。
当時の説明文より:
大橋 仁 「SEA」 2007年(写真作品)
イノセントな笑顔、夜をうろつく野良犬たち。見ようとする視線と対決するかのようにこちらを睨みかえし、カメラに撮られていることに気がついた途端に顔を背け逃れようとします。被写体の女たちはタイの風俗嬢たち。
美術館も、「合意なしに撮影された写真」であることを理解しています。
【メモ】
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- 紛争的な問題提起を行うときには、合意なしの撮影は避けられないはず*1。しかし実際のところ、強引に作品化される対象は、「反論して来なさそうな相手」が多くないか?
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- セックスワーカーという、相手の領域でいちばん弱そうな人を撮影して、その領域を管理する強者は写さない、など。▼裏社会の住人を合意なしに撮影して美術館で展示すれば、どうなるか。――「芸術」を口実にしつつ、ちゃんと計算しているように見える。
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- ある理念で他人への侵犯を行なう者は、《その理念によって確保された自分の領土》を侵犯されることに敏感で、むしろ排他的になる。多くの場合、この自己矛盾は放置される*2。▼芸術や正義を口実にする人たちの、悪い意味でのナイーブさ(言動の硬直、全体主義、ダブル・スタンダード)。要するに官僚的。
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- ていねいな議論は集団的動員になりにくいので、その都度のディテールに入り込むだけでは被害回復ができない、というのが難しい。▼逆にいうと、「人権」「正義」「芸術」等をナイーブに言い過ぎる人たちは、扇情的にしか議論できていない。
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- 侵犯性をともなう作品活動は、相手を傷つけるだけでなく、逮捕されたり、襲われたりするリスクを伴う(その意味でこそ侵犯的と言える)。自分の活動が引き起こすトラブルについて、どこまで予見でき、どこまで引き受けられるか。▼自分の《安全圏≒領土》だと思っていたものまで、紛争で破壊されるかもしれない。
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- 芸術に侵犯が伴うにしても、「侵犯ならば芸術になる」わけではない*3。→侵犯に対して人権を立てたり、人権に対して侵犯を立てたりするだけではなくて、《そもそもどういう侵犯が、活動として必要なのか》についての議論が要る。ここが欠けている。
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- 《侵犯》をかこつ芸術活動そのものが、官僚的反復になっている可能性。
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- 何かを守ろうとする活動は、創造的であると同時に、侵犯的にならざるを得ない。