真理は必ず無時間的であると勘違いした認識を、時間的な活動で位置づけなおす必要

  • 時間についての考究そのものが無時間的認識を目指している奇妙さ。


  • 私たちは、時間との関係において学問や主張が客体レベルにあることを忘れている。どんな学問も、時間的な条件付けの中でしかおのれを実現できない。学問的理解は、それ自体が認識の労働過程でしかあり得ない。*1


  • 学問はいつの間にか、《現在》の不変さを前提にしている。(たとえば5億年前の現在と、今の現在と、5億年後の現在は、必ず同質であって差異は微塵もないという前提)


  • 無時間的な、いわばイデア的な認識を目指す努力に自分を監禁する人*2は、時間による自己解体を嫌う。そういう人は、時間を捨象した概念操作における自分の失敗*3は認めるが、時間推移により身体的に生じてしまう自己批評は拒絶する。


  • 時間推移による自己吟味は、自分がバラバラになってしまう不安とともにある。それは能動的にやろうとするものであると同時に、受動的に襲ってくる。


  • やむにやまれぬ逼迫を受動的に経験しなければ、自己吟味には至らないか? とはいえ追い詰められた人は、むしろ自己吟味ができなくなることも。



  • 自己吟味に見えるものが、じつは逆に主観的妄執にすぎないかもしれない(クレーマーの多くがそうであるように)。


  • どうすれば的確な自己吟味の活動を根付かせることができるか。*4


  • 無時間的であると勘違いした認識には効用がある。しかし例えば数学は、それだけをやっていればいいというような位置づけのものではない。無時間的でたんに論理的・形式的な認識には、それにふさわしい地位を与えねばならない、いわば技法上の地位を。


*1:時間を考慮しなくて済む、つまり記号の素材を持たないイデア的な「認識それ自体」がこの現象世界にあり得るという空虚な妄念。実際には、形而上学の内容ですら記号とともに、時間的なプロセスとしてしか成立しない。

*2:「論理的な関係式以外には考究すべき物事は存在しない」というような思い込み

*3:たとえば「計算ミス」

*4:20世紀の思想的チャレンジの多くはここに賭けられていたように見えるが、その研究者・標榜者に自己吟味が見られるかというと…