《当事者・運動体・アカデミズム》と解釈権の独占

「当事者」という概念のまわりを考えるうえで大事な点に触れた、雁琳氏の論稿。

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いくつか引用してみる(強調は引用者)。

 具体的にどのような中傷と差別的発言であったかについてはいささかも検討されていない

 所謂いわゆる〈弱者男性論〉などは、起草者の思想によればその「コミュニケーション様式」からして「差別的な言動」に数えられることになる。初めからその回路を塞がれているのである。言論に携わる者は必ず、女性は被差別階級、男性は差別階級という起草者の根底的な社会観を共有せねばならないというのである。

 「公正」な議論や論争の場を形成するのは、何が中傷であって何が「公正で冷静」な議論なのかに対する「女性研究者」の判定(のみ)によるのであり、それに対する批判は(女性研究者により「中傷」であると分類されてしまえば)全て「公正」ではない、ということになる。

要するに、

  • 〈風刺文化の否定〉・マイノリティ側による〈解釈権の独占〉マジョリティ−マイノリティ構造から成る〈固定化された社会観〉によって構成される〈非常に強い「公正さ」〉と「男性中心主義」の〈大いなる円環〉

を是とせず、それに対して風刺的な批判を行う人々と何らかの仕方で「距離を取る」ことを勧めている。つまりこの段落は、「傍観者にならない」ことを、すなわちイデオロギーを是としない者を社会的に排除するか、はたまた「同じ場で仕事をしない」ことにより追放せよ、と呼び掛けているのだ。

 ここに至って、〈解釈権の独占〉によって外部の批判をオミットした、循環論法的な自己正当化は極致*1に達している。

 ここには、「誰もが参加できる自由な言論空間」など存在しない。私が〈大いなる円環〉と呼んできたイデオロギーに従うのか、さもなければ、「距離を取られる」のかの二択しか存在しないからである。

 「中傷や差別的発言とそうでない発言の概念的区別」を常にマイノリティ側に占有させることにより、物事の程度問題やそれ以外の可能性を全て巧妙に排除しているのである。共感しないのであれ、批判的なのであれ、このイデオロギーを呑まない者は、言論空間に参加出来なくなってしまう。

 オープンレターとは、「初めから女性を「キャンセル」する差別構造があるから、女性は中傷や差別的言動か否かの解釈権を独占することが〈非常に強い「公正さ」〉になり、そのように女性が解釈権を独占して告発を行えば行う程、そこにその都度差別構造の存在が要請されて見出されてしまう」という循環論法的に自己正当化されたイデオロギーによる、コミュニケーションの〈解釈権の独占〉である。この〈解釈権の独占〉は、当該解釈によって「中傷や差別的発言」と評価された表現や言動の排除、そして同時に、他の解釈の排除を意味する。



くり返し強調される《解釈権の独占》は、私が不登校問題で触れていた話題だ。 拙論レポート『不登校は終わらない』(3)より:

 運動体は、体験情報の解釈権を独占しようとする。それは、「体験を守る」ために一定の役割を果たしつつ、既存の解釈枠に掬われていない新しい体験情報の可能性を抑圧する。



上野千鶴子の弟子筋である社会学者・貴戸理恵と、在野で著名なフリースクール東京シューレ」の間で起こった2005年の紛争では、

この両者が対立した。
そこでは、《当事者・運動体・アカデミズム》のあいだで解釈権の拮抗が起こっており、「当事者の声」はオリジナル・テクストとして重要な役割を果たしていた。*2


フェミニズムは、この《当事者・運動体・アカデミズム》という解釈権の極を、1人で同時に独占しようとする。女性であれば「当事者」であり、フェミニストとしては「運動体」であり、研究者としては「アカデミズム」というわけだ。つまり、相手より優位に立てそうなポジションをすべて独占したうえで、場面に応じて立場をくるくる入れ替える。相手が男なら「私は女」だし、相手が女性学者なら「私は活動家」だし、相手が女性活動家なら「私は学者」。ジャンケンの全ての役を独占したうえで後出しで勝つ――その役割操作をしていいかどうかの決定権も自分が独占する。つまりここにも、卑怯きわまりない《循環》がある。


とりあえず読了直後のメモとして以上をUPする。
この雁琳氏の論稿にはくり返し立ち返り、いろんな方と議論を共有したい。



*1:原文は「局地」となっているが、意味から勝手に修正させていただいた。

*2:東京シューレはその声明文に「当事者の手記」を掲載したし、貴戸理恵は自分の修士論文に自分自身の声を「当事者Nさん」としてこっそり忍ばせていた。また貴戸はそもそも、「不登校当事者が不登校の研究をする」という構図でこの修士論文に取り組んでいた。