「当事者」は、政治活動の主体であって、意見はお互いに対立する

私が斎藤環氏に反論したのは、まさにこれの実演です。
しかしその結果生じたのは、仕事の場からの排除でした(参照)。*1
もちろん抗議は続けますが――紛争そのものは、意見表明にはつきものです。


《自ら環境を変えていく権利と義務》――これは政治活動への誘いであって、「何を言ってもチヤホヤされる」というような、子ども扱いの局面ではありません。


不登校や閉じこもりの「当事者」を特別扱いするのに、いざ大事な議論が始まると、権威者である医師や学者への反論は許さない。そういうことが繰り返され、けっきょく、介入が許される話題は極端に限られています*2。――このままでは、欺瞞的なダブルスタンダードにすぎません。


逆にいうと、発言を試みる限りは、それに応じた勉強や訓練が必要です。読書も議論もせず、試行錯誤も重ねない「当事者」に、何ができるというのでしょう。*3――そもそも「当事者」は、お互いに言うことが食い違いますし、「当事者」どうしの間で、意見は常に対立しているのです。


支援者や学者は、この当たり前の事実に見て見ぬフリをします。
ご自分たちの「仕事のやり方」に抵触しない声のみを取り上げ、
それをやたらと尊重するポーズをとる…



*1:オフラインの会話で気づいたのですが、「上山が怒って降りた」と勘違いされるかたも多いようです。これは、私が行なった批判に対して、斎藤環氏が往復書簡そのものを投げ出した事案です。私による批判趣旨は、その後もずっと続いている大事な話です。▼斎藤環氏は、私と同じ趣旨のことを岡崎乾二郎氏(著名な美術家)に言われたときは黙認し(参照)、それどころか、岡崎氏への個人崇拝的な解説文まで捧げています(『ルネサンス 経験の条件 (文春学藝ライブラリー)』)。――斎藤氏が雑誌『ビッグイシュー』で私に向けた怒りは、「ひきこもりのくせに俺に反論した」というような、差別的な見下しであったことは明らかです。

*2:ひきこもり大学と名付けられた活動は、医師や学者の仕事に本気で介入するつもりなのでしょうか。それとも、(幼稚園の砂場で砂山を作って褒められるように)子ども扱いで満足するのでしょうか。▼こういう「美談」は、ジャーナリストの業績にはなるでしょうが、取り組んだ本人たちの業績にはなりません(業績扱いされるとしても、あくまで「別枠」でしょう)。

*3:難しいのは、ここで勉強することの中身です。既存のアカデミックな議論は、主観性や身近な関係を扱うスタンスを持たないために、それ自体が問題事情の加担者になっています。不登校や閉じこもりの経験者が、アカデミックな議論に触れた結果、極端な体制順応者として官僚的な物言いを始めるのがよくある光景です。――「ひきこもりはネトウヨ」という決めつけをよく見ますが、むしろ閉じこもる人の多くは、「ナイーブな左派」になりがちです。