「道徳」レベルと「経済」レベル

上山:「個人としては、≪働かなければならない≫には道徳レベル(「真人間は働くべきだ」)の要請と経済レベル(「金がない」)の要請があるとして、追い詰められた最後の段階で問題になるのは後者*1。 ▼親御さんはたいてい、ひきこもり初期の段階では前者を強調するが、長期化し、『これはただごとではない』と気付くに従い、話が後者に移行してゆく。ひきこもり状態にある人は、『このまま閉じこもっていたら死ぬしかない』という状況になっても、出られない可能性がある」

「大人になれ」という命題についてどう思うかも、斎藤氏から質問される。「成熟する必要はあるか」。
岩田氏がまず答えたが、失念・・・。

上山:「生きることが出来さえすれば、成熟する必要はないのでは」

この前後に私がしていた話は、以下のような感じ。

上山:「10億円資産があれば、働く必要も成熟する必要もないのでは。逆に言えば、『このままでは、経済的にやっていけないから』という部分にこそ、『働く』や『成熟』の必要性の核心がある。 ▼道徳レベルと経済レベルは分けて考えるべきなのだが、ややこしいのは、就労の入り口の段階で、道徳的人物評価が選別要因になるということ。つまり道徳レベルで得る評価が、各人の経済事情に直結してしまう。カネがあれば『俺の勝手に生きる』でいいが、貧乏な人は『世間様の道徳』を無視できない。」

ここに、「履歴書の空白」の問題もあるんだと思う。

イベントではしなかった話だけど、現時点での補遺

オタクの人たちにも「成熟しなさい」と説教された時期はあったと思うが、独自の(フェティッシュの)流通体系を生み出すことで雇用を生み出し、あるいは物流への関与において経済主体になったことで、「説教」の対象でなくなっていくプロセスがあったのではないか。*2
→ 道徳的糾弾から抜け出すプロセス自体が、きわめて経済的だと思う。逆に言えば、自前の経済世界(生産・物流・雇用)を生み出せない状態で、道徳的糾弾だけに抵抗していても、空しいのではないか。それは、「精神論に精神論で対抗する」話でしかない。
いやしかし、ニート・ひきこもりは何よりも「議論に負けている」ので、言説を生産する仕事は、どうしても必要なのだが。生活レベルでの言説状況を変えることが当事者を元気にする、と考えれば、言説での抵抗作業はそれ自体として支援活動であり得る。



*1:高齢化したときなど

*2:すでに何度か触れた話。