『図書新聞』2718号 「お前もニートだ」(内藤朝雄氏)

某氏に送っていただき、入手。 即拝読。
・・・・強度と、主張のクオリティ。
べんきょうしなくちゃ、とおもった。
ここに書かれていることが、経済(お金)の話とどうリンクするのか、自分で考えたい。
あと、「ニート」を焦点に据えた議論は、やはり「ひきこもり」の深刻さを掬いきれない、とも感じた。



「労働基準法」により

こちらの番組は「請負」の話でしたが、「派遣」最大手が摘発されたとの情報が。

 大阪労働局は24日、人材派遣最大手の「スタッフサービス」グループが会社ぐるみで社員にサービス残業をさせていたとして、都道府県単位で登記されているグループ会社のうち、大阪市に本社を置くスタッフサービス(大阪本部)と、持ち株会社スタッフサービス・ホールディングス」(東京)、さらに同ホールディングスの岡野保次郎(やすじろう)社長(同本部会長)ら5人を労働基準法違反(時間外賃金不払いなど)の疑いで大阪地検書類送検した。
 03年12月に自殺した大阪本部の元副支店長(当時32)の遺族が04年に同本部などを大阪労働局に告発していた。厚生労働省によると、サービス残業を会社ぐるみと認定して書類送検するのは異例。
 書類送検されたのはほかに同本部の中山堯(ぎょう)・前社長(現同ホールディングス専務)▽同本部の関西営業本部副本部長▽同ホールディングスの人事本部長▽同労務部ゼネラルマネージャー。
 大阪労働局によると、同本部は社員8人に対し、労使協定なしに03年7〜11月に1日最大4時間の時間外労働をさせたうえ、割増賃金計約225万円を支払わなかった疑い。同ホールディングスも03年1〜4月に社員17人に対し、同様に1日最大5時間15分の時間外労働をさせ、うち2人に対して同年2〜3月に割増賃金約2万円を支払わなかった疑い。

  • コメント:過労死などの問題に取り組む労働基準オンブズマン大阪市)幹事長 松丸正弁護士
    • 「人材派遣会社は、本来、社員の雇用について他社の模範となることが求められているはずだ。労働基準法を甘く見ている企業は少なくないが、今回、トップを含めて人事の幹部も刑事処罰の対象としたことは評価できる。」*1

・・・・。
ものすごく危険な発言になってしまいますけど、
「不況下でも、サービス残業なしでやっていける」っていうのが、ふつうの会社なんでしょうか。
あと、経営者の人は、どんなに過酷に働いても「残業」じゃないんですよね?
「労使関係」のもんだいか。
自分で自発的に取り組む人と、そうではない人?


労働運動系(はっきり言えば「左翼」系)の闘争は、きっとものすごく大事なのでしょうけれど、あまりに無条件に「正しさ」を突きつけられると、少々戸惑ってしまいます・・・。「なぜ自分たちの努力が必要なのか」というところで、もう少しエネルギーというか、意思伝達の手間を取って頂けると、ありがたいというか・・・・。
「前提を共有しないのが前提」という、厳しいコミュニケーション環境についての省察が、必要だと思います。(決して、労働運動系の議論に価値がないというのではなく・・・・。いろいろ学びたいと思っているのですから。)



*1:朝日新聞2005.3.25付記事。某MLの投稿から孫引き。

というわけで、

「フリーター漂流」をめぐるイベントから考えたことを、いくつか列記してみます。
あらかじめ断わっておけば、今回のイベント参加は、私にとっては一種の「フィールドワーク」になっていました。労働問題になど興味を持てるはずのなさそうな若年者たちと、「労働者の権利闘争」が当たり前だと思っている労働運動系の皆さんが同席したら、どんなことになるのか・・・・。
そのすれ違いと、あるいは鋭い対立について、少しずつ考えてゆきたいと思っています。







若年層における、「揉め事」要因の撤廃(1)――「情報」

参加者の一人だった五条(id:hikilink)さんの感想には、次のように記されている(強調はご本人)。

 フリーターのなかには、自分が置かれている状況を理解できていない人が結構いるのだろうと思う。派遣や請負の形で労働することは決して悪いことではないのだけれど、収入や将来性の点において限界があることも事実である。こういった労働形態の正と負の両面を理解して働くのならよいのだけれど、何もわからず、ただなんとなく働いている人が多いのではないかと心配だ。 (中略)
 ドキュメンタリー作品の放映後は、大学教授(研究者・活動家)と労働組合の幹部さんによる講演が行われた。(中略)労働組合は必要だと思うけれども、ああいった場違いな話は正直つまらない
 私の問題意識は「フリーターの人にどうやって情報を伝えるか」ということに尽きる。こういうことがらは、個人の問題に還元するやり方であるから、労働運動的には批判されてしかるべきだと思う。 しかしながら、流動的な世の中で暮らしゆく私たちは、私たちとして生きていかなければならず、そのためには、やはり生きてゆくのに必要な情報をきちんと持たなければならない。

この感想から浮かび上がってくるのは、
≪個人として為し得る努力は、基本的に「情報収集」の一点にしかない≫という信念ではないだろうか。 「しっかりした情報収集能力さえあれば、的確な選択行動をとれる」、というか、「情報収集以外の局面で努力しても空しい」。
これは、ひきこもりに関する情報サイト管理人としての面目躍如ともいえる。 「闘争」を焦点とする労働組合系の取り組みとは対極的に、「揉め事にするよりも、現にある制度と情報において、可能なかぎり頭よく振る舞いましょうよ」という現実感覚ではないか。 ▼例えばそこでは、自分への改変行為は、「問題意識の洗練」ではなく、薬物を使った「チューニング」という形をとる*1

    • 上記引用箇所には、「こういうことがらは、個人の問題に還元するやり方であるから、労働運動的には批判されてしかるべきだと思う」とご自分で書かれているから、かなり自覚的な選択なのだろうが、労働法に関する話まで「場違い」と表現するのだから、よほど激しい違和感だったのだろう。

当然ながら、こうした現状肯定的な順応姿勢は、一方ではどうしても必要だと思う。「闘い」の要素が必要であるとしても、戦果を待っていては生きられないのだし、あるいはまた、「闘争」を口実にして、自分に有益であるはずの情報収集を怠っていいはずはない。
しかし、やはり問題は、課題を≪情報≫レベルに限定することによって、構造的・制度的・あるいは慣習的に被っているはずの不利益について、問題意識そのものが消失してしまうこと。情報を集めることでは乗り越えられないトラブルや不利益の要因というのもあるはずで、そうした事情については、(≪情報≫のみならず、)≪環境の条件≫や≪状況の論理≫そのものを俎上に上げざるを得ないはず。だから「有益な情報」には、自分の権利を守ってくれるかもしれない法律情報も含まれるはずだ。


たとえば id:hikilink さんは、「本人がその気になって情報収集すれば、いつでも苛酷な雇用環境を抜け出せる」といった前提で話していないだろうか? 「環境要因を放置するかぎり、努力しても抜け出せませんよ」というのが、昨今の「不平等」論であると、私は認識しているのだが・・・・。
――しかし、「現状の環境要因と自分の属性のままでも、やればどうにかなるかもしれない」というのは、たしかに希望のある話で、こうした抜け道の可能性については、私もすぐに否定したくはない。いわば、「変な活路」の可能性。



*1:この点については以前も触れた

若年層における、「揉め事」要因の撤廃(2)――「やり甲斐」

同じ問題は、話を≪やり甲斐探し≫に限定してしまったAさんにも言える。
環境要因が問われないのであれば、私たちに為し得る努力は、「たくさんの人や仕事に出会って、≪やり甲斐≫に出会うこと」に限定される。そうしてようやく「やり甲斐のある仕事」に就けたとして、しかしそこでもし“順応”できなかったとしたら。 → ≪状況の論理≫が間違っていないとしたら、自分(およびその自分を育てた親)のせいでしかあり得ない。脱落について、ひたすら自分を責めることになってしまわないだろうか。
――いやしかし、「やり甲斐」さえ見出せれば、外部から見ていかに「非人間的な」労働環境に見えようとも、構わないではないか、というわけか。
それはそれで一理ある・・・・。



「合わせ技」*5

図式的に言えば、労働運動系には≪偶然の出会い≫という要因がなく、若年層系には、戦略的に≪粘り強く取り組む≫という要因がない。
労働運動系の闘争論理に凝り固まるのでもなく、かといってニヒルな情報屋や、ロマンチックなやり甲斐主義に淫するのでもない――そういう「合わせ技」が必要だ、ということだろうか。
例えば次のような。

「雇用環境改善は一方で確かに重要で、必要ですらあるけど、正社員雇用にもリスクはあるし、いちいち≪闘争≫抱えて不利益こうむるよりは、ひたすら順応主義の短期就労を重ねて、テキトーに泳ぎ渡っていく選択肢があってもいいよね」*1




*1:私が勝手に作文しました

他人事?

そこであらためて考え込んでしまうのは、全員が老いてゆくという現実だ。
スキル蓄積を持たず、場当たり的・刹那的な短期就労を重ねるだけの人間は、中年期を迎えて以降、どのような雇用環境にありつくことができるのか? (低賃金を渡り歩いているから、当然貯蓄もない。)
自分の置かれた状況において、やはり≪たたかう≫という要因が、たくさん残されているように思うのだが・・・・。
「戦うこと」が不利益なのか、「戦わないこと」が不利益なのか。



「トラブル順応能力」こそ

実はこうした疑問は、「慣れ」を強調する斎藤環氏や、「いい加減」を提唱する玄田有史氏についても感じている。
お2人の提言は、≪雇用環境への順応≫という至上命題をめぐって、「やりたいこと」や「出会い」といった要因には触れるが、実際に参加した労働現場での、≪たたかう≫というファクターには、触れてくれていないのではないか。
引きこもり状態に苦しむ当事者が、万難を排し、必死の思いで就労しても、このような労働環境しかなく、そこに順応するしか許されないとしたら。 専門技能のなさとトラブル耐性の低さゆえに、「隷従する」しかないとしたら。 引きこもり系の人は、人間関係が苦手だから労働組合系の“共闘”に関わることも難しい。
――戦えないまま労働現場に復帰しても、「孤立して消費される」存在でしかあり得ないのではないか。

    • 主観的に「それでいい」という納得が生じればそれで充分なのだけれど。そもそも「仕事をする」とは、何らかの形で自分が「消費される」ことであるだろうし。




仕事を通じて怒り、怒りを通じて社会につながること。

さっきから、「戦うこと」の益と不利益について話しているが、そもそもこれは、「現場復帰したい」「生き延びていきたい」という欲望(自発性があってこその話。ひきこもりにおいては、この最も根幹的なファクターこそが最難関なのだ、という話を、私はこのブログで延々してきた。*1
斎藤環氏の「慣れる必要がある」という発言は、そういう限界状況を連想しつつ吟味すべきなのだと思う。医師が「苦痛緩和」や「人命尊重」をミッションとして掲げた時に、≪慣れましょう≫とアドバイスするのは、何も不思議な話ではない。
しかしそこであらためて、「戦う」という要因の重要性を、検討したくなる。むしろ、「戦う」という要因を排除するからこそ、苦しくなるのではないか? 自分の(社会的な)苦痛に取り組むとは、それ自体が「社会的な戦い」と連動するのではないか。 みずからの怒りに取り組む、というミッションを真剣に考えるなら。*2
なんにしろ、≪順応する≫という努力の中に不可避的・必然的に混入してしまうはずの≪敵対≫要因に、僕らはもう少し目を向けるべきではないか?



*1:そこでどうしても、≪転移≫という要因が必要になる。 転移に導かれつつ、バトルが始まること・・・。

*2:それは必ずしも、労働運動系の活動である必要はないのだと思う。

≪トラブル≫のレベル分け――「業務内容」と「雇用環境」

玄田有史氏『14歳からの仕事道 (よりみちパン!セ)』には、「毎日がトラブル」という節がある(p.102)。
少し引用してみる。

そもそも仕事に、必ずこうしておけば絶対安心で大丈夫、ということはありません。今まで自分が経験したことがないようなトラブルは、しょっちゅう起こります。本当に毎日のようです。
(中略)
生産現場でトラブルや故障が続くとき、どこに原因があるか、その対応策を働く一人ひとりが真剣に考える。働く現場で毎日、そんな異常や不確実と格闘してきた経験を持つ人は、新しいトラブルに対しても、想像力を働かせて、自分の力で対応することができるようになる。
(中略)
トラブルを楽しんだほうがいいとまでは言いませんが、どんな職場でも必ず起こるトラブルと闘い続けて、それを乗り越えた瞬間こそが、もしかしたら仕事をすることのいちばんの醍醐味、やりがいを感じる瞬間、なのかもしれません。

とても得心のいく主張。
――しかし、ここで触れられている「トラブル」は、どうやら≪業務内容≫(顧客やノルマとの関係)*1に関してであって、≪雇用環境≫(労働運動系)*2に関するものではない。*3
そして実は私自身も、これまでは玄田氏的な意味において、「トラブル」という言葉を使ってきたように思う。



*1:オブジェクト・レベル

*2:メタ・レベル

*3:これは私の勝手な連想だが、「制度論的精神療法」の議論が、この「業務環境の双方おいて戦う」というモチーフと、関連するように思う。

≪たたかう≫――メタとオブジェクト

  • (1)五条(id:hikilink)さんの口にされているような「情報収集を頑張ろう」という努力(呼びかけ)は、オブジェクトレベルにおける闘争だといえる。環境の論理を問わず、そこに成立しているルールを遵守しながら、ゲームに勝つことを目指すこと。
  • (2)いっぽう労働運動系の努力は、「いま自分が帰属しているゲームのルール」自体を変えてしまおう*1というものであり、いわばメタレベルに関与する、みずからがメタに立脚した闘争努力であると言える。

(2)が有効であるとは信じられず、(1)の戦いに腐心することで生き延びようと悪戦苦闘している若年層に、(2)を前提にした議論や共闘を呼びかけても、なびいてくれるわけがない。



*1:「ルールを変えられないか」という指摘は、大野正和氏もされていたように思います。

攻略法

与えられたルールを遵守して生き延びようとする姿勢は、「ゲームの攻略」と似ている。
たとえば↓

# id:yodaka 『工場での期間労働はうるさく経歴を問われることがないので、履歴の空白に悩んでいる人にはメリットになり得ますね。』

「入り口の関門を突破するのは簡単だけど、中に入るとメチャクチャ単調で益のない労働が待っているお城」に入るのか、あるいは別ルートで、「入るのは難しいけど、中では結構おいしい仕事が待っているお城」を目指すのか。いやそもそも、自分の残りHP*1(回復不能)では、入れないお城しか残ってないのではないか?――というような。

    • 「ったく、糞ゲーが」とかつぶやきつつ、ゲームソフトを交換できるとうれしいのだが。*2
    • 労働運動は、いわば「自分でゲームソフトを書き換える」ことに相当するか。 「高得点を取れないのは、ゲーム・ルールが悪いからだ」というような。


*1:「Hit Point」。ゲーム内でこれがゼロになると死んでしまう。「残り体力」みたいなもの。 ▼ゲーム内には、この数値が一定レベル以下では入れない場所があったりする(らしい)。

*2:できればついでにゲーム機も。スペック悪いよ。

違いを、あらためて言葉にしてみる。

  • 労働運動:「雇用環境を改善し、正社員雇用を目指し、闘おう!」 【ゲームの書き換え】 (メタ)
  • 若年層:「どのみち状況は変えられないんだから、適応スキルだけを身につけよう(「裏ワザ」とか)。 自分が続けていけそうなゲームをとにかく早く見つけよう。」 【素朴なゲーマー】 (オブジェクト




「用語の生命」と、政治性

ここで注目したいのは、(これは私自身にも関わることだが、)オブジェクトレベルへの転落とメタレベルの喪失(問題意識の消失)によって、既存の議論文脈では現役の命脈を保ってきたはずの一つ一つの単語やフレーズが、すでに過去のものと扱われているのではないか?ということだ。
こちらで記したが、私は、私とさほど年が離れているようには見えない*1発言者たちのやり取りが、ほとんどまったく理解できなかった。 → 「言語が理解できない」ということと、「問題の所在が理解できない」ということとは、完全にリンクする。
たとえば、こうした雇用問題で必ず出てくる≪搾取≫という用語は、今の20代以下の世代において、どの程度共有可能なのだろう*2。 多くの人にとって、この単語はもはや歴史用語ではないのだろうか。
→ 議論するときの用語選択のレベルに、すでに政治的主張が潜んでいる。ある単語を使うとき、あるいはそれを棄却するとき、私たちは、それに応じた政治的立場をすでに選んでしまっている。

    • ゲームの喩えをさらに続けるならば、「『ゲーム書き換え』を目論む古い世代にとっては必須のプログラム言語を、若い人はもはや習得しようとはしない」という感じだろうか。与えられたゲーム内でのアイテム収集や高得点・裏ワザ奪取に熱中している人は元気だが、「自分にはこのゲーム*3は無理」と思っている人は、努力すら始められない、というような。




*1:ひょっとすると私が年上かも

*2:36歳の私の世代ですら、共有はほとんど不可能だ。・・・・と世代論に落とし込もうと思ったのだが、私の同世代は、大卒時の就職活動時期がバブル期に重なる。 ▼景気動向と、若者の用語選択とは、何か関連があるのだろうか。というかそういう話ではないのか。

*3:現実社会

「ブラックボックス」と遊技場

こうしたことを考えていて、以前も引用した宮台真司「ディズニーランドの秩序に異を唱えるものは抹殺する」の一節を思い出した(強調は引用者)。

 ネオコンは言います。近代の表層にある多様性と存分に戯れてください。既存の多様性で足りないなら、そこに新たなゾーンを付け加え、その島宇宙に生きてください。他のゾーンを侵害せず、深層のアーキテクチャーに手をつけない限り、ムスリム・ランドも、北朝鮮ランドも、超OK。しかしディズニーランドの秩序自体に手をつけたなら──他のゾーンや深層アーキテクチャーを侵害したら──直ちに抹殺するぞ、と。
 このようなネオコン的な、ある種の近代的普遍思想は、みなさんににとって縁遠いどころか、非常に馴染みやすいものであるはずです。近代的なシステムの便益を存分に享受しつつ、しかし、システムを支える深層のアーキテクチャーは完全なブラックボックスになったまま、意識にも昇らない。それが、グローバリゼーションの世界を生きる私たちの日常的な実存であるはずです。ネオコン的なスキームは、私たちの実存と表裏一体なのです。

私のしていた話との関連でいえば、「ディズニーランド」=「日本(企業の置かれる社会環境)」、あるいは法制度云々、でしょうか。

 一口でいえば、デプスが深く、見通しがたいがゆえに、大ボスにいいように牛耳られて、当事者の利益が侵害されがちなアーキテクチャーを排して、代わりに、デプスが浅く、見通しが利くがゆえに、大ボスに牛耳られにくく、当事者が自らの利益を保全しやすいアーキテクチャーに、移行しようとしているわけです。  (中略)
 自分たち──範囲はオープンに考えてください──が大ボスのいいように牛耳られる状況を回避し、自分たちのことを自分たちで決めることができる自己決定=自己責任型のアーキテクチャーに移行しようとする動きであること。そして、そのことによって、自分たちが入れ替え可能な存在になるのを回避しようとする動きであること。それが、いちばん重要です。「食えればいい」時代は、既に終わったんですね。

若年層は、遊具(会社)は選ぶけど、つまらない遊具は無視するし、「ディズニーランドそのもの」をいじろうとはしない。
労働運動は、ディズニーランドそのものをいじろうとするし、一つ一つの遊具の安全性についても点検し意見する、という感じでしょうか。
いや、できれば、どれか一つの遊具の管理人か、あるいはディズニーランドそのものの経営サイドに回ることも視野に入れつつ、考えたいのですが・・・。
――そしてもちろん、引きこもっている人は、そもそもディズニーランドに出て来れない。*1


(長くなりすぎたので、続きはまたあらためて。)



*1:先日の比喩で言えば、「過去に食中毒を起こした」にあたります。