「ブラックボックス」と遊技場

こうしたことを考えていて、以前も引用した宮台真司「ディズニーランドの秩序に異を唱えるものは抹殺する」の一節を思い出した(強調は引用者)。

 ネオコンは言います。近代の表層にある多様性と存分に戯れてください。既存の多様性で足りないなら、そこに新たなゾーンを付け加え、その島宇宙に生きてください。他のゾーンを侵害せず、深層のアーキテクチャーに手をつけない限り、ムスリム・ランドも、北朝鮮ランドも、超OK。しかしディズニーランドの秩序自体に手をつけたなら──他のゾーンや深層アーキテクチャーを侵害したら──直ちに抹殺するぞ、と。
 このようなネオコン的な、ある種の近代的普遍思想は、みなさんににとって縁遠いどころか、非常に馴染みやすいものであるはずです。近代的なシステムの便益を存分に享受しつつ、しかし、システムを支える深層のアーキテクチャーは完全なブラックボックスになったまま、意識にも昇らない。それが、グローバリゼーションの世界を生きる私たちの日常的な実存であるはずです。ネオコン的なスキームは、私たちの実存と表裏一体なのです。

私のしていた話との関連でいえば、「ディズニーランド」=「日本(企業の置かれる社会環境)」、あるいは法制度云々、でしょうか。

 一口でいえば、デプスが深く、見通しがたいがゆえに、大ボスにいいように牛耳られて、当事者の利益が侵害されがちなアーキテクチャーを排して、代わりに、デプスが浅く、見通しが利くがゆえに、大ボスに牛耳られにくく、当事者が自らの利益を保全しやすいアーキテクチャーに、移行しようとしているわけです。  (中略)
 自分たち──範囲はオープンに考えてください──が大ボスのいいように牛耳られる状況を回避し、自分たちのことを自分たちで決めることができる自己決定=自己責任型のアーキテクチャーに移行しようとする動きであること。そして、そのことによって、自分たちが入れ替え可能な存在になるのを回避しようとする動きであること。それが、いちばん重要です。「食えればいい」時代は、既に終わったんですね。

若年層は、遊具(会社)は選ぶけど、つまらない遊具は無視するし、「ディズニーランドそのもの」をいじろうとはしない。
労働運動は、ディズニーランドそのものをいじろうとするし、一つ一つの遊具の安全性についても点検し意見する、という感じでしょうか。
いや、できれば、どれか一つの遊具の管理人か、あるいはディズニーランドそのものの経営サイドに回ることも視野に入れつつ、考えたいのですが・・・。
――そしてもちろん、引きこもっている人は、そもそもディズニーランドに出て来れない。*1


(長くなりすぎたので、続きはまたあらためて。)



*1:先日の比喩で言えば、「過去に食中毒を起こした」にあたります。