「用語の生命」と、政治性

ここで注目したいのは、(これは私自身にも関わることだが、)オブジェクトレベルへの転落とメタレベルの喪失(問題意識の消失)によって、既存の議論文脈では現役の命脈を保ってきたはずの一つ一つの単語やフレーズが、すでに過去のものと扱われているのではないか?ということだ。
こちらで記したが、私は、私とさほど年が離れているようには見えない*1発言者たちのやり取りが、ほとんどまったく理解できなかった。 → 「言語が理解できない」ということと、「問題の所在が理解できない」ということとは、完全にリンクする。
たとえば、こうした雇用問題で必ず出てくる≪搾取≫という用語は、今の20代以下の世代において、どの程度共有可能なのだろう*2。 多くの人にとって、この単語はもはや歴史用語ではないのだろうか。
→ 議論するときの用語選択のレベルに、すでに政治的主張が潜んでいる。ある単語を使うとき、あるいはそれを棄却するとき、私たちは、それに応じた政治的立場をすでに選んでしまっている。

    • ゲームの喩えをさらに続けるならば、「『ゲーム書き換え』を目論む古い世代にとっては必須のプログラム言語を、若い人はもはや習得しようとはしない」という感じだろうか。与えられたゲーム内でのアイテム収集や高得点・裏ワザ奪取に熱中している人は元気だが、「自分にはこのゲーム*3は無理」と思っている人は、努力すら始められない、というような。




*1:ひょっとすると私が年上かも

*2:36歳の私の世代ですら、共有はほとんど不可能だ。・・・・と世代論に落とし込もうと思ったのだが、私の同世代は、大卒時の就職活動時期がバブル期に重なる。 ▼景気動向と、若者の用語選択とは、何か関連があるのだろうか。というかそういう話ではないのか。

*3:現実社会