仕事を通じて怒り、怒りを通じて社会につながること。

さっきから、「戦うこと」の益と不利益について話しているが、そもそもこれは、「現場復帰したい」「生き延びていきたい」という欲望(自発性があってこその話。ひきこもりにおいては、この最も根幹的なファクターこそが最難関なのだ、という話を、私はこのブログで延々してきた。*1
斎藤環氏の「慣れる必要がある」という発言は、そういう限界状況を連想しつつ吟味すべきなのだと思う。医師が「苦痛緩和」や「人命尊重」をミッションとして掲げた時に、≪慣れましょう≫とアドバイスするのは、何も不思議な話ではない。
しかしそこであらためて、「戦う」という要因の重要性を、検討したくなる。むしろ、「戦う」という要因を排除するからこそ、苦しくなるのではないか? 自分の(社会的な)苦痛に取り組むとは、それ自体が「社会的な戦い」と連動するのではないか。 みずからの怒りに取り組む、というミッションを真剣に考えるなら。*2
なんにしろ、≪順応する≫という努力の中に不可避的・必然的に混入してしまうはずの≪敵対≫要因に、僕らはもう少し目を向けるべきではないか?



*1:そこでどうしても、≪転移≫という要因が必要になる。 転移に導かれつつ、バトルが始まること・・・。

*2:それは必ずしも、労働運動系の活動である必要はないのだと思う。