若年層における、「揉め事」要因の撤廃(2)――「やり甲斐」

同じ問題は、話を≪やり甲斐探し≫に限定してしまったAさんにも言える。
環境要因が問われないのであれば、私たちに為し得る努力は、「たくさんの人や仕事に出会って、≪やり甲斐≫に出会うこと」に限定される。そうしてようやく「やり甲斐のある仕事」に就けたとして、しかしそこでもし“順応”できなかったとしたら。 → ≪状況の論理≫が間違っていないとしたら、自分(およびその自分を育てた親)のせいでしかあり得ない。脱落について、ひたすら自分を責めることになってしまわないだろうか。
――いやしかし、「やり甲斐」さえ見出せれば、外部から見ていかに「非人間的な」労働環境に見えようとも、構わないではないか、というわけか。
それはそれで一理ある・・・・。