「場所を変えること」と、「場所を替わること」

鈴木謙介インタビュー」(SYNODOS)より:

 他者との関係がそこで安全に切れてくれるのならいいのだけど、そういかない場合がある。普通の人だと思ってメールアドレスを教えたら相手がストーカー化したとか。こういう場合であれば、法的権力が介入して、○メートル以内に近づくなとか言えるわけですが、ではその「切れない相手」が、テロリストであった場合はどうか。相手との関係を切断するために権力的介入を行うとは、武力行使から、日常生活の監視の増大まで、様々なオプションがありえるわけですが、それでいいのか。
 ややこしいのは、その「切れない相手」というのは、コミュニケーションとは別に、物理的な環境において「切れない相手」であるということですね。個人の関係で言えば、学校とか仕事の関係上、つきあいが切れないのかもしれないし、世界の問題で言えば、私たちが同じ市場、同じ環境を共有しているということがある。そうした人々がグローバルに繋がることが可能になると、一方が普通に暮らしていることが、他方の人間にとってはあからさまな「暴力」として受け取られてしまいかねないということが起きるわけです。それでも私たちは、その「切れない相手」と共存しなければならないのか。こうした問題について、考えていく必要を感じています。



ここで言われていることの含蓄は、ひきこもり支援に深く内在的です。
いま思いつくものをいくつか。

    • 単なる制度順応*1をしている人が、制度順応そのものによって生じる暴力に気付かない。 その人にとっては順応することが良心だから、「その順応こそが暴力なんだ」と抗議しても、意味が伝わらない。 → 制度に巻き込まれている限り、順応者の暴力から逃げられない。
    • ひきこもっている家の中で、家族は本人との関係を切れない。 切ろうとしても、本人が暴れたり、自暴自棄になったり。 無理に追い出しても、死ぬかもしれない。 家族としては、いま自分のいる場所(家族)を、変えるしかない*2
    • ひきこもり支援者としての斎藤環は、「何人かの仲間ができるまで」を、精神科医としてのご自分のミッションとされている。 しかし社会参加の困難さは、まさに身近な中間集団にこそある。 ようやく参加できた人間関係で、「関わりたくないのに、切れない相手」に巻き込まれてしまったら? 何かの強制力を使うか、とにかくその場を辞めるしかなくなるが、どこへいっても耐え難いと感じたら?(最悪の場合、この世から辞去するしかない。)
    • 仕事上の人間関係には、生活が懸かっているので、簡単に辞めるわけにはいかない。 にもかかわらず、そこが耐え難い場所だったら。――いま自分のいる場所で、そこを変える努力をする*3。 それは、政治力や交渉力の問題になる。 どうしても今の場所を変えられなかったら、場所を替わるしかない*4。(そしてやっぱり、行く先々でダメだったら?*5
    • わかりやすい制度や理念による人間関係は、いわば「(エヌ)」のまとまりにあたる。 そこで機能する関係のロジックは、参加者に順応を強いてくる。 そのロジックを対象化して分析するのが、「-1(マイナスいち)」(参照)。 置かれた環境の中で、「-1」のできる人が増えるほど、その場の風通しが良くなる。 単にルーズになるのではなくて、むしろ適切な勤勉さがはたらき始める。 慢性的で硬直した “勤勉さ” は、勤勉さの言い訳作りではあっても、本当の勤勉さとはいえない。 「何が勤勉であるのか」は、リアルタイムにどんどん変わっている。



「n-1」すなわち「制度分析」*6は、与えられた順応様式を対象化し、検証することにおいて、いわゆる「再帰性」と深く関係する。 両者のちがいについては、場所を問題にする自己検証が《制度分析》であり、自意識的な自己検証が《再帰性》――というふうに、ひとまず私は理解している。
あるいは、「場所の権力」の問題としての制度分析、「承認関係」の問題としての再帰性。 再帰性の担い手は、環境世界からの二重の自由*7に投げ出されている。



*1:この場合の《制度》は、「民族」「性差」「ディシプリン」等であり得る。

*2:人間関係としての家族というより、場所としての家族。直接「関係」に介入するというより、「場所」の変化を考える。こうした着眼は、斎藤環の一部の議論にすでに見られる。

*3:「場所を変える」という課題には、「自分自身を変える」という課題も含まれる。 しかしそれはまかり間違うと、ロボトミーや洗脳にも近づく。 自分は(パチンコ玉のような個物としての自我ではなく)場所の一要素でしかないが、しかしその場所が順応主義に支配されていたら? 私はただ順応するべきなのか?

*4:これはそのまま、「制度を使った方法論」の問題構成であり、三脇康生多賀茂松嶋健らとの議論を直接参照している(後日公表できる予定)。 ▼場所や状況を改善しようとする努力においては、他者への強制力がつねに問題になる(参照)。 私にとっての改善は、他者にとっての改悪かもしれない。

*5:ひきこもりでは、「どこへ行っても自分はうまくできない」という想定が肥大している。それは、「順応しなければならない」という意識の肥大でもある。 ▼どこへ行っても「切れない相手」がいる。 あるいは、どこへ行っても「切りたい相手」と思われてしまう。

*6:「n-1」を「制度分析」とする理解は、三脇康生のご教示による。 80年代以降のドゥルーズ/ガタリ論においては、この理解がすっぽり抜け落ちているとのこと。 私は、この制度分析の要因がなければ、今頃になってドゥルーズ/ガタリに興味を持つことなどなかった。

*7:「労働条件から切り離されてある自由」と、「自分という労働力商品を売りさばく自由」で、マルクスが描き出した。