トークセッション「ゼロ年代の批評の地平」【東浩紀/北田暁大/斎藤環/山本一郎(切込隊長)】*1
id:shin777さん:「ちなみにこんな質問をしてみたかった」
「斉藤先生にうかがいます。
今回のセッションでは東さんと北田さん、お二人の知識人の方が、自分達の世代の知識人は現状の分析は行えるけれども、特定の政治的立場や思想的立場にはコミットしない、と言うよりもできないんだということをおっしゃられたわけですが、それを聞いて僕は「ニート、ひきこもり」のことを思い浮かべました。
僕もそうなのですが、そういった人達の中には、読書などで知識を得ることによって、ニートやひきこもりといった自分をとりまく状況について、ある程度ですが、またあくまで自分なりにですが、分析できている人もかなるいると思うんです。
しかしそれがなんらかのアクションに結びつくかといえば、なかなかそうはならない。もちろんアクションに至るにたるだけの、知識があるいは知恵、明晰さが足りないだけなのかもしれません。
しかしやはりそれでも「ひきこもり、ニート」にとっては、認識あるいは分析と行為との間に深い断絶のようなものがあるような気がしてなりません。どうしてもアクションすることにたじろぎ、立ちすくんでしまいます。
「引きこもりやニート」にとって、読書すること、あるいは認識・分析すること、さらに言えば「言葉の力」は、現状から抜け出すための動機付けあるいはツールとしてはあまり役に立たないものなのでしょうか?
そして斉藤先生がお考えになられている動機付け、ツールはどういったものになるのでしょうか?やはり「出会い」であるとか「異性」とかそういうものになるのでしょうか?」
上記の永冨奈津恵さんの問題意識とモロに通底。
じゅうぶんな素養と明晰さに到達すれば、《動機付け》はおのずと成立するだろうか。