石川良子:「年末ですが。」

 当事者にとって「ひきこもり」とはこれまで依拠していた価値観の書き換えを余儀なくされる経験であり、彼らは自己を語るための語彙として「ひきこもり」を取り入れることにより、いったん見失ってしまった人生の展望を再構築する過程にある人々ではないか。

ちなみに私の言う「当事者」とは「ひきこもりを自己語りの資源として取り入れた人たち」といったようなところです。

むしろ、深刻な現役当事者の多くは、「ひきこもり」という語彙を拒絶している(耐えられない)のですが・・・。*1


石川氏が対象にしているのは、「ひきこもり」を自覚的に引き受ける《当事者語り》の問題だと思うが、これについて永冨奈津恵氏は批判的だ

 「ひきこもりとは働くことの意味を問い直すことだ」とし、
 ニート対策は「問い直し」という
 ひきこもりからの回復作業を妨害するという研究者もいる。
 まぁ、私は研究しているわけでもないから、
 問い直すことでひきこもりから回復していった人のことを知らないけれど、
 (「問い直し」をしたせいで、さらに状態が悪くなった人のことは
 たくさん知っているけど)
こんな問題意識を訴える人もいた。

就労支援のみが問題となってしまう「ニート」よりも、「ひきこもり」の方が論点としてはより《不気味》だと思う。しかし、その意味の過剰性ゆえに、悩んでいる本人が「ひきこもり」という自意識や問題構制自体に自閉してゆくまずさ・・・。▼重要なのは、具体的な出会いなどを通じ*2、「ひきこもり」という問題の枠組みから自分なりの論点に気付き(動機付けられ)、それに取り組むことを通じて既存の自分をくぐり抜け(「超越し」ではない)、未知のステージに「いつの間にか立っている」(社会化される)ということではないか。▼しかし、「ひきこもり」というモチーフにあえて直面すべきかどうかについては、相対化して考えるべきではないか。つまり、「価値観を等閑視してとにかく働けばいい」という一方的指針が乱暴すぎるように*3、「ひきこもりというモチーフに断固として直面しなければならない」というのも、一方的すぎるのではないか。「ひきこもり」という言葉で名指されるような体験(その周辺の苦しみ)を、単に「忘れる」ことで社会参加する――そういう人がいてもいいのではないか*4。▼私自身はそのような器用なことはできそうにないから、これは石川氏に対する反論になっているのかどうか、わからないが・・・。

 (1)お金を稼いで生計を立てていくこと
 (2)より良い生を実現していくこと
・・・・とにかく、私が「ひきこもり」を通して見ようとしているのは(2)の話だ、ということです。

「より良き生」という、古代ギリシア的モチーフ・・・。▼その模索の各人におけるあり方と、その環境としてのマクロ要因(社会や経済)があるとして、――「現代における倫理的模索の生態」? 【それはもちろん、自己言及的に逡巡をもたらしますよね?・・・】





*1:私自身、斎藤環社会的ひきこもり』を読んだのは、自覚的な活動(2000年後半)を始めて以後。 本の存在は発売(1998年末)直後から知っていたが、「ひきこもり」という語彙で自己規定することは、現役最中にはどうしても耐えられなかった。

*2:言うまでもなく、具体的な支援においてはここまでに物凄いハードルがある。

*3:しかし、それですら一部の人には有効だろう。とにかく「現実は変えられない」のだから。

*4:これはおそらく、「ロボトミー」「マインド・コントロール」といった問題系を呼び寄せる。