横浜でご一緒したかたから、10月末に頂いたメールの一部より(許可を得て引用):
関係性、あるいはコミュニケーションが成り立っていることのスタイルを問題にすること自体が、なんらかのスタイルを介してでなければ伝わらない、というパラドクス?のようなものがあると思っていて、実践的にはなんらかのスタイルにすでにのっとってしまいながら、そのスタイルを維持した中でしか、スタイル自体を問題にできない、というのは矛盾じゃないか、と思いますが、
僕自身も含め、多くの人は、スタイルに順応しなければ社会参加できないということを、そういうものだとどこかで割り切って(あるいは矛盾を矛盾と思わず)、社会参加をしているのかなと思います。
多くの人々によって、その矛盾がどうやって乗り越えられているのか、ということと、スタイルに内在しながらスタイル自体をくみかえていく、というようなことがいかにして可能なのか、
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- 問題にすることそれ自体が目的ではないので、問い直しには必然性がある。 差し迫って追いつめられている。(内的に、外的に)
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- 《究極の目標》を設定できれば再帰性から逃れられるが、それがよく分からないのがこの生。わからないままだから、つねにチェックして軌道修正し続ける必要がある。
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- スタイルを決められないままでも、それとして実際的なプロセスを生きてしまう。 惰性の時間は、それ自体としてきわめて堅固。 「事情を知っていればそんなふうにはしなかったのに」
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- 時空間的に状況のさなかで生きる、そのことのレベルを上げたい。
支援事業の周辺では、このテーマをめぐって立場が分かれている。
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- (1)話題を共有でき、議論もご一緒できるかた*1
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- (2)知的には分かるように見えて、感情的に反発するかた*2
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- (3)何の話をしているかが分からないというかた
わからないというかたは、神戸での被災体験を描いたこの文章を、読んでみて頂けませんか。
そこで表現されている解放感が、関係しています。
*1:直接お会いした方にかぎらず、《当事者》という概念を考え直そうとする方々とは、多かれ少なかれこの話題をご一緒していると感じます。
*2:名詞形の「当事者」ポジションにしがみつく人、医療系・福祉系でお会いする多くのかたや、『ビッグイシュー』での斎藤環氏がこれにあたります(参照)。 職業的専門性(と見えるもの)にフェティッシュ的あるいはコスプレ的にハマり込んで自己を再生産する人たちにとって、再帰的問い直しは、「命綱をいったん手放せ」と言われるようなものなのだと思います。―― これはしかし、ひきこもりという現象の根幹にかかわることです。 コモンズ大学のイベントで高橋淳敏さんが、「社会が引きこもっている」という言い方をされていましたが、その原理部分を考えれば、この話になります。