当事者概念の歴史と可能性

日本語にいう《当事者》(旧字で當事者)は、外国語にうまく置き換えられない。
たとえば英語で「person concerned」「party」などとしても(参照)、日本語で《当事者》というときの何とも悩ましい経緯いきさつは、かなり言葉を尽くさないと説明できない――というか、説明しても理解されにくい*1

そこで、この語が日本でいつごろ使われ始めたか、語源的にはどういういきさつを持つのかを調べてみた。


大まかにはこんな感じ:

  • 《當事》という表現は、「コトにあたる」という意味では、中国の紀元前(春秋時代)の記録がある。
  • 幕末〜明治初期に外国の書籍がたくさん邦訳されたが、日本に存在しない概念を訳す際には、次のように処理された。 (a)古典中国語の語彙の転用、 (b)中国語に訳されたものの借用、 (c)漢字による造語*2。 (d)自然科学については、蘭学者オランダ語から訳す際にあみだしていた訳語をつかった。*3
  • ヘンリー・ウィートン(Henry Wheaton)の英語原文『Elements of International Law』(初版1836年)を、ウィリアム・マーティンと複数の中国人が漢語訳した万国公法1864年)は、翌1865年には日本で読まれていた*4 これは、日本人が近代法的な当事者概念(少なくともその枠組み)に触れた最初期ではないだろうか。
      • 英語原文には《party》の語が頻出するが(参照)、漢語訳にも、その漢語訳から和訳された重野安繹(しげの・やすつぐ)の仕事(1870年、明治3年)にも、私が参照できたかぎりで《當事》の文字はなく、「一方ヲ」とか「戦フ者何方ヨリモ」などと訳されている。*5
      • 英語原文からの邦訳は、1875年(明治8年)に部分訳、1882年(明治15年)に全訳を、大築拙蔵(おおつき・せつぞう)が完成させているが、ネットで見つけたその部分的訳文(参照)にも、《當事》の文字は見つけられず。
      • たとえば「権利」「義務」は、マーティンらの漢語訳で造語され*6、それをのちに箕作麟祥みつくり・りんしょう)が、ナポレオン法典の邦訳(1874年)で採用し、日本に定着した。*7
  • その箕作麟祥によるナポレオン法典の邦訳仏蘭西法律書(1874年、明治7年)は、日本の法典・法制度に大きな影響力をもったが、ここでは多くの訳語が新造されている(「不動産」「義務相殺」ほか)。 フランス語原文には「partie」の語が頻出するが(参照)、箕作訳を一通り眺めたかぎり*8、《當事者》の語は発見できなかった。
  • 日本の法典で初めて《當事者》の語が採用されたのは、1890年(明治23年)の民事訴訟法(参照)。 この採用に至ったいきさつや、日常用語としての当時の状況は、よく分からない。
    • 現在の中国語では「当事人」「當事人」というようだが(参照)、由来や概念運用の詳細は分からない。 ▼『漢典』によれば、 《当事》 ・・・・ (1) efficacious 〔効果的・有効な〕、 (2) concerned 〔関係している〕、 (3) agent 〔行為者・動作主〕


考える上で

    • ある概念が諸外国語でもつ意味と、翻訳された後に日本語でもつニュアンスは、違っている。近代法的な《当事者》概念は、独立した意思表示や契約の枠組みがあって初めて成り立つが、それも一神教の背景をもつ西洋と日本では、前提が違ってしまう。
    • 明治23年民事訴訟法が大きな転機だったことは間違いないだろうが、現在の日本語でいう《当事者》の悩ましいニュアンスは、法律用語だけを見ていても分からない。最初は「違和感のある漢語」として使われ始めたにしても、いつの間にか、日本独特のニュアンスが出ているように思われる。
    • たとえば《主権》であれば、ポンと概念だけを論じればよい。しかし《当事者》の場合、その概念の内実となる作業は、むしろ名指された後に待っている。つまり名指された各人が、再帰的に自分の分析をしなければならない。私はそういう話を必要としている。―― 概念使用には歴史的ないきさつがあるが、その展開の可能性はこれから創造したい。
    • 「当事者」というと多くは名詞形の話になってしまうが(最後に「者」がつくし)、私はあくまで動詞形(不定詞)としての《当事者-化》を考えたい。 あるいは造語して、《当事-化》 を言うべきかもしれない。 そういう議論も、歴史的諸条件のさなかでしか成立しない。





――― 以下、資料とメモ ―――


民事訴訟法正義 明治23年〈上―1〉 (日本立法資料全集) pp.213-4

【ひらがなでテキスト化】 當事者の語は初めて法典に用いたれども其意義は原被両造と云へる意義より廣くして猶ほ訴訟関係人と云ふが如し。従来法律語として用ひたる原被両造の語は只原告本人被告本人を指したるのみなり。故に訴訟参加人等は此の中に包含せざるを以て此の語は其実と相適わざるの嫌ひなき能わず。然るに當事者と云へば訴訟に関係ある者を総称することを得るを以て此の嫌ひを避くることを得るなり。然れども當事者と云へば必ずや訴訟の勝敗に依て利害の関係を有する者たることを要す故に證人鑑定人評價人等はその訴訟に関係したりと雖も其訴訟の勝敗に依て利害の関係を有せざる者なるを以て之を當事者と称することを得ざるなり。又検事判事書記等も固より當事者にあらずとす。*9

    • 【大まかな現代語訳】: 当事者の語は、初めて法典に用いたけれども、その意義は原被両造という意義より広く、むしろ「訴訟関係人」というようなものだ。これまで法律語として用いてきた原被両造の語は、ただ原告本人・被告本人を指すだけ。それゆえ訴訟参加人等はこの中に含まず、この語はその内実と相容れない嫌いがある。そこで《当事者》として、訴訟に関係ある者を総称することにすれば、このまずさを避けられよう。しかし当事者といえば、訴訟の勝敗に利害関係をもつ者である必要があるゆえ、証人・鑑定人・評価人などはその訴訟に関係するといっても、訴訟の勝敗によって利害関係をもつとは言えないため、これを当事者と称することはない。また検事・判事・書記等も、もとより当事者ではないとする。




諸橋轍次大漢和辞典 (巻7)(修訂第2版、p.8037) より:

    • 【一】國語 魯語上・・・・「文仲曰:賢者急病而讓夷,居官者當事不避難。」 文仲 曰ぶんちゅういわく、「賢者けんじゃめるにきゅうにしてたいらかなるにゆずる。かんものは、ことあたりてなんを避けず。》  同ページにあった、解説的な注より:「賢者は災害に遭いてはこれを救うに急にして、他を顧みるに暇あらず。故に自ら進みてその任に当たるなり。しかして平居無事の時はこれを人に譲るなり。」*10
        • 作者は左丘明(生没年不詳)とのことだが、これは春秋時代(紀元前)の魯の史官
    • 【二】禮 檀弓下・・・・「大夫弔,當事而至,則辭焉。」  :「“當事”,當主人有大小斂殯之事也。」
        • 禮記(らいき)も、2,000年ちかく前のもの(参照)。
    • 【三】儀禮 特牲饋食禮・・・・「佐食當事,則戶外南面,無事,則中庭北面。」  《註》:「當事,將有事而未至。」(参照


    • 【四】福惠全書 蒞任部、清査之法*11 「嘱託地方當事壓制新官」画像  同じく蒞任部、禁私謁 「當事之待紳衿固宜優禮」画像
        • これは清の時代の地方行政について記した書らしい*12。 清というと、1636年〜1912年。 日本語訳は小畑行簡(1794-1875)によるもの、近藤圭造による『福恵全書和解』(1876年、明治9年)など。



 




夏目漱石三四郎(1908年、明治41年)より*13

 三四郎は眼を洋燈ランプの傍へ寄せた。見出に大学の純文科とある。 
 大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者は一切の授業を外国教師に依頼していたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促されて、今度いよいよ本邦人の講義も必須課目として認めるに至った。




大槻文彦箕作麟祥君伝』(1907年、明治40年) p.82〜 http://bit.ly/tCPaJt

1887年(明治20年)9月15日、箕作麟祥(みつくり・りんしょう)氏が明治法律学校の始業式で行った演説より*14。 日本最初の民法典公布の3年前。

 それから間もなく明治の御一新になりましたが、素より法律書はのぞいて見たこともなかったが、明治二年に明治政府から「フランス」の刑法を翻訳しろと云ふ命令が下りました。(其時分は大学南校と云ふ所に勤めて居りました。) そんな翻訳を言付けられても、ちっとも分りませんだった。尤も、全く分らぬでも無いが、先づ分らぬ方でありましたが、どうかして翻訳したいと思ふので、翻訳にかかったことはかかりましたところが、註解書もなければ字引もなく、教師もないと云ふやうな訳で、実に五里霧中でありましたが、間違ひなりに、先づ分るままを書きました。其後、続いて民法、商法、訴訟法、治罪法、憲法などを訳しましたが、誠に朦朧としたことで翻訳をしました。諸君も御承知でござりませうが、それを文部省で木版に彫りまして、美濃判の大きな間違ひだらけの本を拵(こしら)へました。
 其本は実に、分らないことだらけでありました。また分っても、翻訳語が無いので困りました。権利だの義務だのと云ふ語は、今日では、あなた方は訳のない語だと思ってお出ででありませうが、私が翻訳書に使ったのが大奮発なのでござります。併し何も私が発明したと云ふのでは無いから、専売特許は得はしませぬ(喝釆、笑)。支那訳の万国公法に「ライト」と「オブリゲーション」と云ふ字を権利義務と訳してありましたから、それを抜きましたので、何も盗んだのではありませぬ。また、新規に作りましたのは、動産だの不動産だのと云ふ字で、今日では政府の布告にもあるやうになりましたが、これを使ふのは、実に非常なことであったのです(喝釆)。それから、義務相殺だとか、未必條件だとか云ふような字を作りましたが(一々申し上げかねます)、ところが、今日はそれが立派に行はれるやうになりました(喝采)。

 さういう塩梅に、実に五里霧中で翻訳をして居る中に、明治政府は頻に開明に進み、其翌年、明治三年には、太政官の制度局と云ふ所に、其時、江藤新平と云ふ人が中弁をやって居りましたが、民法を二枚か三枚訳すと、すぐそれを会議にかけると云ふありさまでありました。これは変は変だが、先づ日本で民法編纂会の始まりました元祖でござります(喝采)。其時分、「ドロワ、シビル」と云ふ字を私が民権と訳しました所が、民に権があると云ふのは何の事だ、と云ふやうな議論がありまして、私が一生懸命に弁護しましたが、なかなか激しい試論がありました。幸に会長江藤氏が弁明してくれて、やっと済んだ位でありました。




穂積陳重 『法窓夜話』 48「法律の学語

 現時用いている法律学の用語は、多くはその源を西洋の学語に発しておって、固有の邦語または漢語に基づいたものは極めて少ないから、洋学の渡来以後、これを翻訳して我邦の学語を鋳造するには、西学輸入の率先者たる諸先輩の骨折はなかなか大したものであった。
 無精者を罵って「竪のものを横にさえしない」というが、堅のものを横にしたり、横のものを竪にしたりするほど面倒な仕事はないとは、和田垣博士が「吐雲録」中に載せられた名言である。蘭学者がその始め蘭書を翻訳したときの困難は勿論非常なものであったが、明治の初年における法政学者が、始めて法政の学語を作った苦心も、また実に一通りではなかった。就中(なかんずく)泰西法学の輸入および法政学語の翻訳鋳造については、吾人は津田真道(つだ・まみち)西周(にし・あまね)加藤弘之箕作麟祥(みつくり・りんしょう)の四先生に負うところが最も多い。津田先生の「泰西国法論」、西先生の「万国公法」、加藤先生の「立憲政体略」「真政大意」「国体新論」および「国法汎論」、箕作先生の「仏蘭西六法」の翻訳などに依って、明治十年*15前後には邦語で泰西の法律を説明することは辛(かろ)うじて出来るようになったが、明治二十年頃までは、邦語で法律の学理を講述することはまだ随分難儀の事であった。
 我輩が明治十四年に東京大学の講師となった時分は、教科は大概外国語を用いておって、或は学生に外国書の教科書を授けてこれに拠って教授したり、或は英語で講義するという有様であった。それ故、邦語で法律学の全部の講述が出来るようになる日が一日も早く来なければならぬということを感じて、先ず法学通論より始めて、年々一二科目ずつ邦語の講義を増し、明治二十年の頃に至って、始めて用語も大体定まり、不完全ながら諸科目ともに邦語をもって講義をすることが出来るようになったのであった。
 かくの如く法学をナショナライズするには、用語を定めるのが第一の急務であるが、諸先輩の定められた学語だけでは不足でもあり、また改むべきものも尠(すく)なくなかったので、明治十六年*16の頃から、我輩は宮崎道三郎、菊池武夫、栗野省吾、木下広次、土方寧の諸君と申合わせて、法律学語の選定会を催したのであった。その頃九段下の玉川堂が筆屋と貸席とを兼ねておったが、その一室を借りて、ここで上記の諸君と毎週一回以上集会して訳語を選定したのであった。また一方にあっては、明治十六年から大学法学部に別課なるものを設けて、総(す)べて邦語を用いて教授することを試みた。
 かような経験があるから、我輩は法政学語の由来については、一通りならぬ興味を持っている。故に今、我輩の記憶を辿って、重(おも)なる用語の由来について、次に話してみようと思う。勿論、中には記憶違いもあろうし、また遺漏も少なくあるまいが、これに依って法律継受の経路の一端を窺うことは出来るであろうと思うのである。




《当事者》は、複数の文脈や概念のハイブリッド。

    • プロレタリアート」「マルチチュード」 〔連帯と正当性のアリバイ〕
    • 本人 〔同一性、ナルシシズム
    • 再帰性 〔危機、直面〕
    • 被害者 〔悲劇性〕
    • マイノリティ 〔弱者〕
    • 天皇制 〔絶対的尊重の枠組み〕
    • 契約 〔独立した意思表示と約束〕
    • 利益 〔公正さ〕
    • 責任 〔権力、関係性〕
    • 主体化 アイデンティティ、所属〕
    • 主権 〔意思決定〕
    • つながり 〔党派性、集団〕
  • 《当事》という漢語のニュアンスとしては、
    • 「コトにあたる」という制作過程(物質や動植物にはない)
    • 「ぶつかる」という偶然性
    • 「まさに〜すべし」という必然性・倫理性
    • 「すぐに」という緊迫性
  • 無意識の文脈(参照):
    • メタ言語はない Il n'y a pas de métalangage.」
    • 「他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている(De Alio in oratione, tua res agitur.)」
    • 分析主体(analysand)
    • 「誰が語るのか?(Qui parle?)」



概念のスタイルそのものも、これから作り変えてゆけるはず。



*1:stakeholder(利害関係者)、victim(被害者)、survivor(生存者)、minority(マイノリティ)、patient(患者)、injured person(怪我人)など、それぞれの状況に応じて人を名指す言葉は見つかるが、それを 《party》 や 《person concerned》 と呼んでしまうと、日本語の《当事者》とはニュアンスが異なるし、それだけでは日本側のややこしい事情を説明できない。 西洋語にかぎらず、外国語に詳しい方のご意見を賜れれば幸いです。】

*2:その一部は、逆に中国語に導入された。 「共産党」「社会主義」などは、日本で作られた言葉(参照)。

*3:以上、『翻訳の思想 (日本近代思想大系)』の加藤周一の指摘(pp.361-365)を参照した。

*4:坂本龍馬にもエピソードがある(参照)。

*5:重野安繹・訳『和訳万国公法』(明治3年)の第13節までが掲載された『翻訳の思想 (日本近代思想大系)』の、pp.14-5 を参照した。

*6:正確には、中国古典から出た語。 《権利》・・・「是故権利不能傾也」(荀子、勧学)参照 / 《義務》・・・「子曰務民之義」(論語、雍也)参照  意味的に権利は《権理》と書く方がふさわしいが(参照)、普及せずに今に至っている。

*7:中国からの留学生である彭文祖の『盲人瞎馬新名詞』(1915年、大正4年)では、「きてれつな」和製漢語の事例として、「權利」「義務」「當事者」が挙げられている(参照)。 しかし「権利」「義務」は、ウィリアム・マーティンと中国人らによる漢語訳『万国公法』が最初だから、明白な間違い。―― この間違いのエピソードは、『万国公法』漢語訳の50年後。

*8:仏国常用法〈第1集第1冊〉 (日本立法資料全集)』〜『仏国常用法〈第2集第3冊〉 (日本立法資料全集)』の6冊

*9:上のスキャン画像にある見慣れない文字については、「合略仮名」を参照。

*10:國譯漢文大成』pp.125-6

*11:上に画像で示した『大漢和辞典 (巻7)』には「査交代」とあるが、書籍で確認したかぎり間違いだ。

*12:「清の黄六鴻の撰した書で,三十巻から成っている。福を地方に与え,恵みを民衆に施すべき地方行政の要訣を説いたものである」(中国名著解題

*13:日本国語大辞典〔第2版〕9 ちゆうひ~とん』の項目「当事者」(p.965)に、例文として挙げられている。

*14:翻訳の思想 (日本近代思想大系)』 pp.303-315 に、解説つきで掲載されている。

*15:1877年

*16:1883年