使いみちのない否定性

バタイユは、ヘーゲル的絶対知があり得ない以上、否定性*1には「使いみちがない」と言った。
以下、『有罪者―無神学大全』(pp.250-251)原文より:

 何はともあれ、私の経てきた心労の多い体験が、とうとう私に、私にはもう何も「する」ことがないと確信させるに至ったのです。(そんなことを私が容易に納得したはずはありません。ご存じの通り、さんざん努力してみた結果、ようやく断念するまでになったのです。)
 もし行為が(「すること」が)――ヘーゲルの言うように――否定性であるのならば、「もう何もすることのない」否定性は消滅してしまうのか、あるいは、「使いみちのない否定性(négativité sans emploi)」という形で存続するのか、という質問があらためて発せられるはずです。 個人的には、このあとの方だと断定するほかありません。 私自身がまさにこの「使いみちのない否定性」なのですから(私にはこれ以上に明確な自己規定は考えられません)。 私としてはヘーゲルはこの可能性を予見していたと考えたいところです。 だが少なくともヘーゲルは、この可能性を、自分の記述した諸現象の進行過程の終了した位点に設定しはしませんでした。 私の生は――あるいは私の生の流産は、もっとはっきり言えば、私の生というこの開いた傷口は――それだけで、ヘーゲルの閉鎖的体系への反証となるものです。 (略) 私はしばしば、人間存在の絶頂には、取るに足りぬものしかあり得ないかも知れぬと考えたものでした。



  • 使いみちが「ある」なら、その使いみちに応じて再帰性が根絶される。しかし使いみちは「ない」のだから、問い直しは根絶できない。
  • つながりかたに、再帰性拒絶のスタイル(各人の方針)が表現される。というか、再帰性拒絶のありかたがいつの間にか繋がりかたを規定している*2
  • 再帰的チェックを拒絶するありかたが党派性。 「私はこういう形で自分を肯定する」
  • つながりが成功したと思い込んだ者は、スタイルの問い直しをやめ、「つながれた」という自慢話に専念する。 知識人たちの発言では、《つながりかた》こそが布教されている。 ▼具体的共同体の呼びかけでは、実際につながることと同時に、「どうつながるか」が無自覚に呼びかけられている。「そこについてだけは、再帰性を認めたくないんだよ」という信仰告白
  • 何をやったところで賭けの要因(現実の過剰性)は根絶できない。つながりを創れるかどうかは分からず、突発事は続き、耐え難いまま。よくわからない、とるに足りないものに直面し続ける(おそらく何億年たっても)。
  • 「どの現実の切り取りを尊重すればいいのか」を最終的に決められる、いわば《現実問題の最終解決(Endlösung der Realitätsfrage*3》はない。・・・・「ない」と言い切ったあとで、そのことに途方に暮れている。




*1:直接性が否定され、より高い段階に移行するのがヘーゲル弁証法参照)。ヘーゲル流の労働論であり、「現象の人間化」が問題となっている。否定性に使いみちが「ある」なら、現象の人間化は可能ということ。

*2:商品的な価値形態に生きる者は、承認スタイルを再帰的に問い直したりしない。「価値が実現した」ら、そのスタイルで居直る。それができない者は、つながりを維持も再生もできない。関係性が孤絶し、生活できない。 ▼再帰性を拒絶する集団的パターンを身体化できた者が生き延びる。⇒どのパターンが集団的承認を得るかこそが、政治バトルの焦点となっている。(関係性のスタイルが常に問い直されざるを得ない、そのヘゲモニー争いがやまないのが、ポストモダンということではないか。バラバラであるというのは、ニュートラルに併存することではない。そもそも、バラバラであることを支えるにはそれなりの条件が要る。その条件は恒常的に支えられている。)

*3:ナチスの隠語「ユダヤ人問題の最終解決(Endlösung der Judenfrage)」にかけた。 現実を根絶することはできない。 不可能であるが故に禁じられる。