動機づけと言語

パトゾフィー

パトゾフィー

以下、[ ] 内は訳者による説明、〔 〕内はルビを原語に置き換えたもの。 太字強調等は引用者による。

 わたしがここでパトス的カテゴリー pathische Kategorien とか パトスの五線星形(ペンタグラム) pathisches Pentagramm [ペンタグラムは魔除けの符号] とか呼んでいるのは一つの抽象概念で、その効用は、それで正しいこと、真のことが捉えられるという点にあるのではなく、結果的に役に立つという点にある。 (略)
 パトス的カテゴリーには、Will [しようとする/したい/意志する]、Kann [できる/可能である]、Darf [してよい/させてもらう]、Soll [すべきである/する義務がある]、Muß [せねばならぬ/必要である/必然的である] の5つがある。 パトスのペンタグラムは幾何学的な形をしていて、この5つが互いに一定の仕方で関係し合っていることを示している。 この5つのパトス的カテゴリーは、言語の論理のなかで幾何学的公理と類似のものである。 (略)
 いまわれわれが公理に喩えたこれらのカテゴリーのそれぞれは、いわば情熱、情動あるいは情念のようなもので、それが飛んでいるところをさっと捕らえて強引に文法的な形に凝固させてしまったものとみることができる。 それは動詞、ドイツ語でいうと Zeitwörter [文字通りには「時間語」の意味で、「動詞」を指す] と呼ばれる形である [多くの場合「助動詞」として用いられる]。 しようとする〔wollen〕、できる〔können〕、してよい〔dürfen〕、すべきである〔sollen〕、せねばならぬ〔müssen〕は、いわばそれらの情念を捕らえておく鳥籠のようなものである。 しかしそれらの鳥籠は、動詞として活用と人称変化を受ける。 たとえば[わたし/彼/彼女は] しようとした wollte、[わたしは] できた habe gekonnt、 [わたしは] せねばならなくなるだろう werde müssen などの使われかたをする。 これを見てもわかることだが、ここには人称性 [Personlität,人格性] も入り込んでいる。 わたし、あなた、彼、それ、われわれ、彼らなどの人称代名詞が動詞の活用を規定し、活用が意味をもちうるためにどうしても必要な前提となっている。 これをパトスの風景に引き寄せていうと次のようになる。 情念的に知覚される世界、つまり体験されるとともに生きられもする生命の要点は何かというと、凝固しないこと、すべてが流動的であること、捕らえられた鳥が鳥籠と一緒に、あるいは鳥籠が鳥と一緒に、ふたたび空に舞うことである。 ここにパラドックスが持ち上がる。 つまり、カテゴリーとか公理とか文法形式とかに現れているのは、動かないもの、変わらないもの、したがって存在の永遠の静けさに近いものなのだから。 (略)
 人間はパトス的人間学から見ると、そもそもの最初から不十分で、不完全で、補完を要し、変化しやすく、不確定で、できそこないで、無力であり、だからどのみち存在それ自身として永遠にではなく、時間的にその姿を現すということである。 (pp.86-87)



動機づけも言語のかたちをしている。