初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)
- 作者: エミールブレイエ,´Emile Br´ehier,江川隆男
- 出版社/メーカー: 月曜社
- 発売日: 2006/06/01
- メディア: 単行本
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江川隆男氏の解説「出来事と自然哲学」より:*1
ここでストア派とともに私が主張する《自然哲学》は、一つには自然のなかの動詞を探求する学であり、それゆえ《物体=身体》(ソーマ)とは《動詞体》(ロゴス)のことである。 (p.127)
ここに言う自然哲学とは、プラトン-アリストテレス的な、知性の合理主義、概念主義、主知主義といった思考が支持する自然学から批判的に区別された、言わば一つの独断論、すなわち初期ストア派の人々の「偉大な独断論」である。しかし、それは、《ものごとの真理を知ることができる》という意味での独断論ではなく、したがってその逆の不可知論とも完全に手を切って、自然の活動そのものの結果こそがわれわれの生命の発現であり、その表現的形相がわれわれに自然の動詞を教えるのだという主張――ここには、存在の仕方としての新たな動詞を創造することができるという主張も含まれる――である。この限りでの彼らの精神はまったく新しかったのである。 (pp.128-129)
これによって各個の物体が一つに保持され、統一が形成されるが、この限りでこの統一が示しているものは、ある名詞によって名指され、それゆえあらゆる属性に対して超越したような実体的一者ではなく、動詞によって表現されるべき種子的動詞体が有する多様体としての内的な統一性である。 (p.149)
動詞の不定詞的表現、例えば、《緑になること》は、現実に存在する樹木の性質、あるいは樹木と空気との混合――この混合のもとに、葉緑素は葉のすべての部分と相互浸透的に共存する――を指示する語でもなければ、命題によって指示される対象としての樹木が《緑であること》において表象されるような名詞的表象でもなく、それとはまったく異なる別の表象、「動詞的表象」(représentation verbale)をわれわれに与える。ドゥルーズが提起するこの動詞的表象は、まさにストア派の把握的表象をより的確に再表現したものだと言える。つまり、動詞的表象は、単なる「対象の表象」ではなく、《表現》と《表現可能なもの》から合成された表象のことであり、これによってわれわれは、ある動詞の不定詞によって表現された《表現可能なもの》を一つの出来事として表象することができるのである。 (p.165)
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- 「動詞的表象」*2。 これは、たんなる論理学とセットの「対象の表象」に対比される。
私は、私の目の前にいるある人がロボット(=個体)でないことをわかっている。というのは、私は、たとえどんなに短い間でも、その個体の顔の表清やその身体的振る舞いと同時に、個体化しか表現することのできないような種子的動詞体とその表現をそこから感じとることができるからである。
それに対してまったくの個体は、例えば、軍隊の行進のごとく、身体や精神のノイズなどどこにもないかのように、「等質的拍節」によって歩んでいくような物の状態である。最初から軍隊の成員に個体化など必要ないのであり、軍隊の構成者が実際には個体化する各個の人間であったとしても、彼らを軍隊に関するあらゆる歩みの構成者だと考える限り、彼らを個体(=ロボット)と見なさなければならない(彼らには、もっとも崇高な個体化、裏切り者の兵士になることが可能であるにもかかわらず)。
何故そうなるのかというと、軍隊の歩みに望まれるのは、個体の身体だけが産出するような、またその秩序と制度をひたすら維持するような等質的動詞体、つまり名詞的動体であって、個体化の属性が表現する異質の身体ではないからである。 (pp.210-211)
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- 《種子的動詞体 ⇔ 等質的動詞体》。 《個体化 ⇔ 個体》
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- 「個体」として、一般名詞に還元される人々。 これを自分や誰かに行うのが《差別》だ(参照)。 ここで江川氏がやっているのは、差別問題に取り組むための原理論でもある。
以上をふまえて、エミール・ブレイエの記述:
一つの解決策が残っていたが、それは述語の本性をまったく異なった仕方で検討することであった。何人かのメガラ学徒は、繋辞《である》を用いて、彼らの習慣的な形式のもとで判断を言明するのを拒否していたことが知られている。彼らは、「樹木は緑である」ではなく、「樹木は緑になる」と言わなければならない、と考えていたのである。
どのようにこれが述定作用の問題の解決であったのかは、ストア派の人々がわれわれに理解させてくれる事柄である。繋辞《である》を無視し、主語を動詞――ここに付加形容詞的な属辞(参照)が目立っておかれることはない――によって表現するとき、まったくの動詞として考えられた属辞は、もはや概念(対象あるいは対象のクラス)としてではなく、もっぱら事実あるいは出来事を表現するものとして現われるのである。
したがって、命題は、本性上、不可入的な二つの対象の相互可入性をもはや要求しない。命題は、対象が働きをなしたり働きを受けたりする限りで、その対象の特定の側面を表現するだけである。しかし、こういう側面はその対象を充たす一つの実在的本性、一つの存在ではなく、その対象の能動性の、あるいはその対象に対する別の対象の能動性の帰結そのものたる《活動=行為》なのである。命題の内容、すなわち命題によって意味されるものは、したがって、けっして対象でもなければ、諸々の対象の関係でもない。
ここから、ストア派の人々が動詞を含む命題しか受け入れないことがわかる。つまり、彼らにとって述語と繋辞は、動詞において一つになるということである。これによって、彼らが排除するすべての判断、つまり属辞がその主語の実在的な特質を指示し、また諸概念の間の関係を指示するようなすべての判断が理解される。
判断における表現されるものとは、《物体が熱い》というような特質ではなく、《物体が熱くなる》というような出来事である。属辞を分類する際に、ストア派の人々は、アリストテレスのように、多かれ少なかれ本質的でもあれば偶然的でもあるような、属辞と主語の関係の仕方によって、それら属辞を区別するようなことはしない。彼らが区別したいのは、その分類において出来事が表現されうる多様な仕方だけである。
動詞的な当事者――《当事化》
「べてるの家」の「当事者研究」は、向谷地生良氏の出発点が認知行動療法*3にあることなど、私の参照するフランス系の議論との対比が気になっています。
いわゆる「ポストモダン」がどうにもならないとされるなか、日本の《当事者》概念も、
に、席巻されるでしょうか。
現時点では差異も目立つものの、「当事者研究」は、「研究」に力点を置いて理解すれば、動詞的な議論でもあるはずなので、議論は続けられるはずだと思っています。7月13日のシンポでは、こうした点にも触れるつもりです。
*1:本エントリ内のリンクや強調、段落分け等の整理は、全てブログ主のアレンジ。
*2:ドゥルーズ『意味の論理学 下』p.124〜。 同箇所が江川隆男氏に訳された『初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)』「注43」のほうが分かりやすい。
*3:Cognitive behavioral therapy、略して「CBT」。 引用:《当事者研究というアプローチは、長年の私自身のソーシャルワーカーとしての実践の一つの到達点である。そして、独りよがりの理解ではあるが、その経験を根拠づけてくれたのが「認知・ヒューマニスティック・アプローチ」であり、その世界への突破口を開いたのがSST(Social Skills Training)であり、CBT(Cognitive Behavioral Therapy)なのである。》(『統合失調症を持つ人への援助論』 まえがき)