際限なき検証への、形式的な禁止

新潮 2010年 07月号 [雑誌]』の討議「東浩紀の11年間と哲学」*1と、
思想 2010年 06月号 [雑誌]』の討議「来るべき精神分析のために」*2を読み比べつつ。


東浩紀ガタリから剔抉した「複数の超越論性」を、《形式的禁止》の設計問題として使いまわすこと。 ここに現代思想と臨床の交点がある。

    • 「なぜ酒を飲まないんですか」という問いに対し、「γ-GTP値が高いから」「約束があるから」などの合理的理由があるのは、《禁酒》の領域にある(だからまた合理的理由によって飲み始める)*3。 しかし私の《断酒》*4では、禁止は形式的に措定されている(飲まないから飲まない、理由はないし訊いてもいけない)。 ここで措定された形式が超越論的主観性であり、断酒以外のさまざまな場面でもくり返し設計し直される。 そしてこれは無神論*5



クォンタム・ファミリーズ』の並行世界だけでは、私はどの世界に行っても引きこもることしか出来ないだろう。 なぜならどの世界でも私の主観は同じパターンを反復するしかないから*6。 無視してはいけない現実を永遠に無視しているように感じる。 「本当はこれをやるべきだったのに、それを出来ていない」怖さ。 それに抗する処方箋は、「疑念を形式的に禁止して、やってみる」以外にない。 その固定されたフレームだけが自由を与えるし、自由な検証を可能にする。


本当に無数の現実があるなら、無理してまで「この現実」を引き受ける理由はない。 あらゆる責任を引き受けることはできないが、有限責任への義務もなくなる。 「この現実を引き受けてもいいが、それはどうせ偶然的でしかないから、無視してもいい」。 だとしたら、その偶然的関係で現に生活を支えてくれている家族にも社会にも責任を負わなくてよいことになる。 自分の欲望も偶然だからどうでもいい、居直れればいい。 倫理も批判もひたすらごまかす(公正な応答責任を要求されることに理不尽感がある)。


「ネットとゲームばかりの人生を許してくれるなら、生きててやってもいいけど」。 生まれてきたことに対する被害感情を、支えてくれている親にぶつける。 お前に生きててほしいと思ってるのは家族だけ。 いやその家族も、「できれば早く死んでほしい」が本音かもしれない。 「応答できないなら死ね」


この討議で読むかぎりのマラブー《可塑性 plasticité》は、「どういう切実さをどう変えていくのか」の制作論とセットでなければ、制作過程の実演としての schizo-analyse と交われない*7。 単一の潜在性/実在性としての現実界ラカン)は、「どうでもいい」をついに言えなくさせる最終地点のはず(それが否定神学といわれる)。 そこをなかったことにするなら、固着した自分の切実さへの居直りにすぎない。


ひきこもる他者は、可塑性を拒絶する孔(あな)みたいなもの。 本人が単一的な神学構造に監禁されている(単独性はここで、臨床的固着のことでしかない)。 現象の外傷性を、固着という形でしか支えられていない。



追記

  • 現象経験の外傷性には、《形式的禁止》という処方箋しかない。 生きる意味への問いは、trauma への直面に等しい。 記憶を拒絶し、変化を拒絶する《現象》*8は、形式的禁止のもとでしか付き合えない。
  • 人の目を気にする自己チェックは、極端に保守的。 保守的な悩み方がフレームとして固着し、自動的に反復するため、「ほかの活路」が見えない。 ひきこもる人は、「思いつめ方」がみんな似通う。 自分のなかにある《あの孔》しか見ていない。 ▼際限なき自己チェックを、「形式的に禁止する」――それを内面の技法にすることで、ずいぶん楽になれるはず。
  • 自覚的に固定された形式的禁止は、宗教の機能的等価物であり、無神論者の生存技法にあたる。




*1:東浩紀國分功一郎+千葉雅也(参照

*2:十川幸司+原和之+立木康介参照

*3:禁酒の理由は、無限の応答責任として無限に探すことができる。 無限にあるということは、結局どれにも単独的必然性はない。 「本当に禁止しなければならない理由」は、ついに見つからない。

*4:期限つきで飲まないことではなく、「死ぬまで一滴も飲まない」と決めること

*5:この理解は、AA(アルコホリックス・アノニマス)の「ハイヤーパワー」とも、斎藤環が『思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)』『博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理』末尾で提示するガタリ理解(モデル化の次元を変えること)とも違っている。 単なる超越性を召喚することでもないし、「モデル化」の生産態勢をメタに固定し続けることでもない。

*6:私が虚構作品に興味を持てない理由。 どの作品を読んでも、現に生きるこの私は主観構造を変えることがほとんどできない。 逆にいうと私はそれしか求めていない。

*7:可塑性の場所をマラブーは「脳」と言い、東浩紀は「社会のネットワーク」と言い、十川幸司は「システム」と言っている。 私は主観性の動的編成(主体の生産過程が中間集団と切っても切れない)で考えたい。 私が《素材化》とくり返し言うのは、可塑性をめぐる作業スタイルこそが《つながりかた》にあたるから。 私は既存の《つながりかた》に耐えられない。

*8:バタイユが主題化していたのはこの話だったはず。