「考え方」自体を分析対象にする

本書「はじめに」より(強調は引用者)。

 私は精神分析医ではありません(「日本精神分析学会」と「日本ラカン協会」のメンバーではありますが)。 分析理論の知識は、ほとんどが論文や書物を通じて学んだものばかりです。 なかには知識の偏りや誤解が含まれているかもしれません。 しかし率直なところ、臨床家としての私は、「正確な知識」などどうでもいい、と考えているところがあります*1
 一番大切なのは「考え方」です。 理論というものは、「考え方」を鍛え、より複雑で洗練されたものにしていくうえで重要なのです。



ひきこもりへの対処や「支援」というのは、ややもすると限りなく陳腐で「わかりやすい」スタイルに落ち込んでゆく。巨額の予算が投じられる「ニート支援」をはじめとして、それら「支援」スタイルの根幹になっている思想は、ちょっと途方に暮れるほどありきたりだ。「集団生活で社会性を」「規則正しい生活を」「自然とのふれあいを」云々。わかりやすすぎる。斎藤がよく言うように、たしかにそうしたものですら確率的にうまく機能することがあり得る。しかし、思想と現場との緊張関係が決定的に問われるはずのテーマで、支援者の思想それ自体がしっかり検証されるのでなければ、支援は、目的だけが先に決まったやっつけ仕事ばかりになる。


私は、支援者や本人の「考え方の枠組み」が硬直していることに、最悪の “臨床的” 問題を見ている。その意味で、支援者や理論家の側にも「臨床的な」問題が残っている*2関係の中で主体そのものが立ち上がってくる、そのプロセスとしての困難や危機をそれ自体として主題化しなければ、ひきこもりに固有の困難を扱ったことにはならない。
そこを主題化しなくてよいなら、ひきこもりに関する専門的議論は、生物学的精神医学、労働運動、社会政策論などに還元できる。逆に言うと、そうした既存ジャンルで何百年語っても、ひきこもりに内在的な主体の困難をそれ自体として論じたことにはならない。 斎藤環のひきこもり論は、「ひきこもりの苦痛」を静止画像として(つまり「実体化」「再帰性」などとして)描くことにはたいへん鋭いが、さてそこでその困難にどう取り組めば良いのかとなると、「好きにさせることで、欲望を見出してもらう」以外の指針が見えてこない。



*1:ラカン派を標榜しながら、教育分析を受けておらず、学者的な文献研究もしていない立場からの、積極的な(あるいは反論としての)エクスキューズという意味もあるかもしれない。▼これは、「理論と臨床」についての、重大な態度表明だと思う。ここでこそ、徹底的に「考え方」を練り上げる必要がある。(以下の私は、ずっとそれを問題にしている。)

*2:「考え方の制度的硬直」という、臨床的な問題。ただしこれは、「周囲が悪い」「社会が悪い」という一方的な話ではない。ひきこもっている本人自身の思考も、制度的に硬直している。