「課題の析出」と、「自分のニーズ」

「発言できる人である」という時点で、私の個人としての属性は、「ひきこもり当事者」の平均像から著しく逸脱している。その意味において、私はやはり、「代表例」のように振る舞うべきではない。活動にしたがって徐々に人間関係ができ、社会的能力を身につけ、あるいは異性との交流を持ち・・・・といった事情が進めば、私の属性はどんどん「ひきこもり当事者」から逸脱してゆく。そうして、個人としての私は、あくまでそれを目指すべきなのだ。


私が「ひきこもり」との関連において考えるべきなのは、自分の当事者属性を可能な限り軽症化すると同時に、メタな形で課題を析出し、そこに取り組むことだろう。個人レベルにおいて抱えた問題は、可能なかぎり消滅させること。個人としての頑張りではどうしようもない問題については、それへの取り組みを社会的に措定する努力をすること。それに取り組むのに、「ひきこもり当事者である」必要はない。というか、ひきこもり当事者的な弱さやキツさは、むしろ足枷となる。私はある問題や課題に、「ひきこもり当事者として」関わるのではない。《属性当事者》ではなく、《課題当事者》として関わるのだ。たとえば、「何度脱落しても、そのつど再チャレンジできる社会を必要とする、一個人」として。そのテーマに取り組むのに、「ひきこもり当事者」である必要は毛頭ない。


大阪の親の会で初めて発言を試みてから、ちょうど丸5年が経った。これを機に、私は「ひきこもり当事者」として発言する、という枠組みから、卒業するべきかもしれない。「当事者」ではなく「経験者」として、あるいはさらに進んで、「ひきこもり問題に詳しく、そこから析出された課題の提唱者」として発言すること。――しばらく前から、私の発言はすでにそのようにシフトしていたはずだ。
上野千鶴子氏によれば、当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))とは、「私のニーズは私が決める」ということ。私は、自分の抱えた問題の当事者であるにすぎない。私が「ひきこもり当事者」として振舞う機会を与えられたのは、時代状況や出会いなど、偶然の成り行きもあっただろう。しかし今後は、自分のニーズに従って活動を試みるだけだ。
嫉妬とやっかみに狂う人々は、西暦2000年という段階――新潟少女監禁事件の直後――に「ひきこもり当事者」として実名発言を試みたいきさつがどのようなものであったか、想像することすらしないのだろう。そういえば、2000年10月の「最初の実名発言イベント」のアンケートには、すでに「自分の個人的な体験をしゃべっているだけ」という幻滅的な感想があったっけ。5年かかって、ようやく「体験から課題を析出する」、「自分の個別的ニーズに忠実になる」という指針が見えてきた。これを私の、活動5周年とすれば良いだろうか。大勢からは、私の活動そのものが否定されているわけであるが。
いや、そんなことはない――そう思い込むこと。