「属性当事者」と「政治主体」の峻別

ひきこもり支援というのは、当事者を政治主体にすること。*1
主体化の結果、支援者に歯向かうことは当然ある。

  • 歯向かう権利はあるが、歯向かっている内容が馬鹿げていれば今度は支援者に反論の権利がある。これまでは、「当事者は支援者に反論してはならない」と、「支援者は当事者に反論してはならない」の両極であって、どちらも不毛。「当事者か支援者か」は属性レベルの峻別だが、議論というのは、そこで解明されるべき課題との関係において言説が生産されるのであり、そこでは属性は無意味。実際に提起された言説レベルで評価されるべき。*2
    • この際には、当事者は「当事者であるという属性がゆえに」尊重されたり馬鹿にされたりするのではなく、一定の見解の表明主体としてそのようにされる。発言内容が正しければ評価され、駄目ならば蹴られる。 → これは非常に厳しい状況だが、当事者として活動や発言を試みるのであれば当然その試練が課せられる。
    • ひきこもり状態の当事者は、やむにやまれず「降りてしまった」人であり、それはまるで重要会議に参加せずに権利主張するような状態・・・・。「出たいのに出られない」は、通用するのか。この悩ましさ。というかそもそも、権利主張したがっているのか。――どんどん悩ましい。

斎藤環氏が「治療」という言葉を使って一部から批判されているが、それが氏の言う通り「精神の自由度を高める」ためのものであるなら、「治療を受けた結果、斎藤環を批判できる生活力・政治力を身につけた」となれば慶賀すべきということであり、これは「当事者支援」というレベルではたしかに成功している。支援者への批判の是非そのものは、「当事者であるか否か」(属性)とは別のレベル(課題)で評価すべきことだ。「当事者であるから主張見解はすべて傾聴すべきだ」というのは完全に間違っている。当事者のほとんどは、一般生活者と同じく、聞くに値する見解を持ってはいない(ニーズは持っているが)。



*1:「生活主体=政治主体」と考えた。

*2:実はそこに、属性に関連する利害が絡むからややこしいのであるが。 → 匿名による批判について論じた、「発言と利害」参照(もとの黒木玄氏の文章もぜひ)。ただしその際にも、「属性ゆえに」無条件に非難されるのはおかしい。発言内容と属性とを比較検討しないと・・・。